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本能寺の変 1582 信長の台頭 7 290 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 7 斎藤義龍の死 

森部の合戦。

 同十四日、雨。
 斎藤方が、墨俣から森部方面へ押し出した。
 
  翌日十四日、雨降り侯と雖(いえど)も、
  御敵、洲の股(岐阜県大垣市墨俣町)より、
  長井甲斐守・日比野下野守、大将として、
  森辺(同安八郡安八町森部)口へ人数を出し侯。

織田軍の大勝利である。

 信長は、これを撃破。
 美濃勢は、二人の大将を失い、総崩れになった。 
 
  信長は、天の与ふる所の由、御諚侯て、
  にれまた(楡俣)の川(長良川)を越し、かけ向はせられ、
  合戦に取りむすび、鑓を打合はせ、数刻、相戦ひ、
  鑓下にて、長井甲斐守・日比野下野を初めとして、
  百七十余人討たせらる。

 戦場での逸話である。
 
  爰(ここ)に、哀れなる事あり、
  一年、近江猿楽、濃州へ参り侯、
  其の内に、若衆(男色の相手)二人侯ひつる、
  一人は甲斐守、一人は下野、止め置き侯ひし、
  今度、二人ながら、手と手を取り合ひ、主従、枕をならべ討死侯。
 
  長井甲斐守、津島の服部平左衛門討ちとる。
  日比野下野守、津島の恒河久蔵討ちとる。
  神戸将監、津島の河村久五郎討ちとる。

 
 
 前田利家は、信長の勘気を蒙っていた。
 この戦いで、帰参を赦された。
 
  頸ニツ、前田又左衛門討ちとる。
  ニツの内、一人は日比野下野与力、足立六兵衛と云ふ者なり。
  是れは、美濃国にて、推し出だして(名の知れた)、
  頸取り足立と云ふ者なり。
  下野と一所に討死侯なり。

 
  此の比(ころ)、御勘気を蒙り、前田又左衛門、出頭これなし。
  義元合戦(桶狭間)にも、朝合戦に頸一ツ、惣崩れに頸ニッ取り、
  進上侯へども、召し出だされ侯はず侯ひつる。
  此の度、前田又左衛門御赦免なり。
                          (『信長公記』)

 

          ⇒ 次回へつづく


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