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本能寺の変 1582 信長の台頭 5 280 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 5 武田信玄と天沢和尚 

信長は、世俗に通じていた。

 信玄の、知らぬ世界である。
  
  又、小うたを数寄て、うたはせられ候と申し候へば、
  いな物をすかれ候と信玄仰せられ候。
  それは、いか様の歌ぞと仰せられ候。  

これが、信長の死生観である。

 人は、必ず、死ぬ。
 ならば、為すべし。
 後々までの語り草になるだろう。  
 
  死のふは一定、
  しのび草には何をしよぞ、
  一定かたりをこすよの、

  是れにて、御座候と申し候へば、

  ちと、其のまねをせられ候へと、信玄、仰せられ候。
  沙門(さもん=出家の身)の儀に候へば、申したる事も御座なく候間、
  罷り成りがたしと、申し上げ候へば、
  是非々々と、仰せられ候間、
  まねを仕り候。
                          (『信長公記』)

一期は夢よ、ただ狂え。

 当時の世相を反映する小歌を「閑吟集」*から二つ紹介する。
 「閑吟集」は、室町時代後期(永正十五年1518)に成立した小歌選集。
 編者は、不明。
 大衆の声である。
 何とも、切ない時代だった。  

  世間はちろり*に過ぐる、ちろり、ちろり、

  何せうぞ、くすんで*、一期は夢よ、ただ狂へ、

   *ちろり    アッという間に。ちらり。
   *くすんで   真面目であること。


          ⇒ 次回へつづく


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