見出し画像

本能寺の変 1582 信長の台頭 3 257 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

将軍義輝が参内した。

 同六日。
 この年、初めてである。

  義輝、参内して、歳首を奉る、
                          (「史料綜覧」)

  六日、雨ふる、
  ふけ、はしめてさんたい、
  五こん(献)まいる、
                      (「お湯殿の上の日記」)
 

三好義興と松永久秀が、これに供奉した。

 御供衆の中に、その姿が見える。
 大懸かりなものだった。 

  六日、壬寅(みずのえとら)、雨降る、天一天上、
  今日、武家御参内これ有り、
  (中略)
  御走衆、・・・・・・・・・・等なり、
  御供衆、細川右馬頭、・・・・・、三好筑前守(今日始めて)、・・・
  ・・、松永弾正少弼(今日始めて)、・・・・・・・・・・・・等なり、
                          (「言継卿記」)
   

長慶が摂津芥川山城へ帰った。

 同十日。
 義興・松永久秀とともに、帰城。

  十日、丙午(ひのえうま)、天晴、天一天上、
  三好修理大夫・同筑前守・松永弾正少弼等、
  今日、芥川へ下国しおわんぬ、

  明後日、和泉国へ陣立てと云々、
                          (「言継卿記」)
 

          ⇒ 次回へつづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?