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本能寺の変 1582 信長の台頭 7 289 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 7 斎藤義龍の死 

永禄四年(1561)

 信長、二十八歳。

美濃の斎藤義龍が亡くなった(三十五歳)。

 五月十一日。
 原因、不明。
 突然の死であった。
 大永七年(1527)の生れ。
 享年、三十五。
 法名、国清寺殿前左京兆雲峰玄龍大居士。

 信長にとっては、余りにも、好都合。
 何か、怪しい・・・・・。

義龍の子、龍興がその後を継いだ(十四歳)。

 龍興は、天文十七年(1548)の生れ。
 まだ、十四歳。
 元服前だったという。

信長は、西美濃へ攻め入った。

 同十三日。
 その、わずか二日後。
 信長は、出陣した。

 それにしても、早い。
 手際が良すぎる。
 すでに、準備が出来ていたのだろう。
 「暗殺」、・・・・・。
 ますます、疑惑が深まる。

  一、五月十三日、木曾川・飛騨川(長良川)の大河を舟渡りし、
    三つこ(越)させられ、    
    西美濃へ御働き。
    其の日は、かち村(岐阜県海津市平田町勝賀)に御陣取り、
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく


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