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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 256 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

三好長慶が幕府に出仕した。

 二月一日。
 山科言継ら公家衆が将軍義輝を訪ねた。
 そこで、長慶・義興父子と居合わせた。 

  一日、丁酉(ひのととり)、天晴、天一天上、
  当年、武家参らずの間、今日、参ずべし、
  (中略)
  次、武家に参る、
  予、先ず、御台に参る、
  御酒これ有り、
  次、大樹(義輝)、御対面、
  公家、広橋大納言、予、・・・・・・・・・・・・、右衛門督等なり、
  大名、三好修理大夫、
  御供衆、細川右馬頭、・・・・・・・・・、三好筑前守、・・・・・、
  御部屋衆、三渕入道、・・・・・・・・・、
  申し次、・・・・・・・、
  (中略)

 長慶と義輝。
 少し、距離が縮まったの感、あり。
 気のせいか・・・・・。

 長慶と山科言継。
 長慶は、義興の筑前守拝任について、重ねて礼を申し述べた。

  次、三好修理大夫、同孫二郎任筑前守の御礼、御太刀・馬等にて、
  両人、更に、御礼申され候ひおわんぬ、
                          (「言継卿記」)

長慶は、松永久秀を重用した。

 長慶の推挙あればこそ。 

 同日。
 松永久秀、将軍義輝の御供衆に任ぜられる。
 嫡男義興と同じ。
 すなわち、直臣。

  一日、
  幕府、松永久秀ヲ供衆ニ列ス、
                          (「史料綜覧」)

 同四日。
 「忠」から、「少弼」へ。
 昇進である。

  四日、
  弾正忠松永久秀ヲ弾正少弼(しょうひつ)ト為ス、
                          (「史料綜覧」)

  四日、雨ふる、
  武家より、しつそう(執奏)とて、松長女房、御神楽申しつくる、
  松長しょうひつ申す、
  御心えのよしあり、
                      (「お湯殿の上の日記」)
 

久秀は、なかなかの策士である。

 長慶の心の奥深くに、入り込んでいた。
 これらのことは、やがて、わかる。


          ⇒ 次回へつづく

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