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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 299 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

教興寺の戦い。

 同(永禄五年1562)、五月二十日。

義興の軍勢が押し寄せた。

 二万余とも云われる。

  五月廿日、河内国、教興寺(八尾市)に押し寄せけり、

畠山高政が軍勢を引いた。

 その様に、仕向けたらしい。
 高政は、高屋城を経て、烏帽子形城(河内長野市)へ。 

  松永、謀(はかりごと)を廻(めぐ)らし、
  ( 中 略 )
  諸人、吾(われ)先にと引ければ、
  夜中に、高政も、烏帽子形の城え引き退ける、

教興寺の付近が戦場になった。

 後詰の進出が功を奏した。
 紀州勢と激突。 

  紀州衆、玉木・湯川・根来寺衆、
  後陣にありて、夜明けに、引き退けるを、

  三好方、一万五千人、一手に成りて、追いかけ、懸かれば、
  ( 中 略 )
  三好方にも、よき士(さむらい)千余人疵(キズ)を被り、
  三百人、打ち死にす、 

 
 紀州勢を撃破。
 湯川直光、討死。 
 
これで、勝敗が決した。

  紀州衆は、湯川宮内少輔直光、大将にて、
  ( 討死した重臣十人の名がつづく 略 )等なり、
  ( 中 略 )
  都合、名をも知るゝ士(さむらい)八百余人、
  根来衆、二百人打ち死になり、
                         (「足利季世記」)


          ⇒ 次回へつづく

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