本能寺の変1582 目次小 信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 277~282 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史・信長公記。『光秀記』
目次小 信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 277~282
*277~282は、バックナンバーです。
277 「噂」は、瞬く間に周辺諸国に広まった。
信玄は、信長を強く意識していた。
天沢長老物がたりの事。 『信長公記』
278 信玄は、信長の「形儀」について尋ねた。 『信長公記』
これが、信長の日常である。 『信長公記』
279 信玄は、信長の「数寄」について尋ねた。 『信長公記』
信長は、舞と小歌を好んだ。 『信長公記』
これが、信長の生き様である。 『信長公記』
280 信長は、世俗に通じていた。 『信長公記』
これが、信長の死生観である。 『信長公記』
一期は夢よ、ただ狂え。 「閑吟集」
281 天沢は、信長の鷹狩について述べた。
信長は、用意周到である。
信長は、実に、用心深い。 『信長公記』
信玄は、戦場をイメージした。
信長は、勝機を逃がさない。 『信長公記』
それ故、信長は、戦いに勝った。 『信長公記』
信長は、戦巧者である。 『信長公記』
282 この時、信玄、四十歳。
信玄は、信長より十三歳年上。
勝頼は、信長より十二歳年下。
信玄は、感心した。 『信長公記』
信玄は、信長のことをもっと知りたかった。 『信長公記』
目次 1~317
目次中 信長の台頭
1信勝謀殺 240~244
2尾張統一 245~253
3桶狭間 254~273①
3桶狭間 254~273②
3桶狭間 254~273③
3桶狭間 254~273④
4光秀と長宗我部元親 274~276
5武田信玄と天沢和尚 277~282
目次小 信長の台頭
1信勝謀殺 240~244
2尾張統一 245~253
3桶狭間 254~273①
3桶狭間 254~273②
3桶狭間 254~273③
3桶狭間 254~273④
4光秀と長宗我部元親 274~276
5武田信玄と天沢和尚 277~282
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく
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