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本能寺の変 1582 信長の台頭 5 282 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 5 武田信玄と天沢和尚 

この時、信玄、四十歳。

 信玄は、大永元年(1521)の生れ。
 この年、永禄三年(1560)時の年齢である。
 気力・知力・体力がともに充実。
 その上、経験豊富。
 正に、男盛りだった。

信玄は、信長より十三歳年上。

 信長は、天文三年(1534)の生れ。
 この年、二十七歳。
 「桶狭間」
 勇名が天下に鳴り響いた。
 全国区、である。 

勝頼は、信長より十二歳年下。

 天文十五年(1546)の生れ。
 この年、十五歳。
 信玄の四男。
 母は、側室、諏訪頼重の娘。

信玄は、感心した。

 信長、勝利の理由。
 「これで、わかった」
 ようやく、腑に落ちた様子である。
 「油断ならぬ相手」
 そう、思っただろう。

  信長の武者をしられ侯事、道理にて侯よとぞ、
  ふしをがみ(伏し拝み)たる躰(てい)にて侯間、

信玄は、信長のことをもっと知りたかった。

 天沢に、再訪を命じたという。 
  
  御いとまをと、申し侯へば、
  のぼ(上)りにかならずと、仰せられ、
  罷り立ち侯ひつると、天沢、御雑談侯ひつる。
                          (『信長公記』)

 
         ⇒ 次回へつづく

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