本能寺の変 1582 信長の台頭 5 278 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 5 武田信玄と天沢和尚
信玄は、信長の「形儀」について尋ねた。
そして、いよいよ、本題へ。
先ずは、日々の行い、行状について。
信玄は、知りたかった。
信長とは、一体、如何なる男なのか。
信長の形儀(ぎょうぎ)を、ありのまゝ残らず物語り候へ
と仰せられ候間、
申し上げ候。
これが、信長の日常である。
天沢は、答えた。
全部で、五つあった。
一、馬。
朝毎(ごと)に、馬をのられ候。
一、鉄炮。
又、鉄炮御稽古、師匠は、橋本一巴(いっぱ)にて候。
一、弓。
市川大介をめしよせ、弓、御稽古。
一、兵法。
不断は、平田三位と申すもの近付けをかせられ、是れも兵法にて候。
一、鷹野。
しげ々々、御鷹野に成られ候と申し候。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく
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