本能寺の変 1582 信長の台頭 3 259 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
今川軍が尾張に進出した。
今川義元は、すでに、鳴海*・大高*両城に軍勢を入れていた。
「虎視眈々」
言わば、橋頭保。
ここを足懸りとして、尾張に攻め込もうとしていた。
信長にとって、義元は、父信秀以来の宿敵。
心の内には、怨念が渦を巻いていた。
前面に、今川。
背後に、斎藤義龍。
信長に、逃げ場はない。
選択肢は、ただ一つ。
これを、迎い撃つのみ。
失敗は、すなわち、死。
生き残るには、勝つしかなかった。
御国(尾張)の内へ、義元引請けられ候ひし間、
大事と、御胸中に籠(こも)り侯ひしと、聞こえ申し侯なり。
信長は、五ヶ所に付城を築いた。
今川方の手にあった鳴海城に対して、三ヶ所に付城を築いた。
丹下砦*・善照寺砦*・中島砦*、である。
一、鳴海の城、南は、黒末の川(天白川)とて、入海(いりうみ)、
塩(潮)の差し引き、城下までこれあり。
東へ、谷合ひ打ち続き、西、又深田なり。
北より東へは、山つゞきなり。
城より廿町隔て、たんげ(丹下)と云ふ古屋しきあり、
これを御取出にかまへられ、
水野帯刀・山口ゑびの丞・柘植玄蕃頭・真木与十郎・
真木宗十郎・伴十左衛門尉。
東に、善照寺とて古跡これあり。
御要害に侯て、佐久間右衛門(信盛)・舎弟左京助をかせられ、
南に、中島とて小村あり。
御取出になされ、梶川平左衛門をかせられ、
同じく、大高城に対して。
こちらは、鳴海城の南西半里(2km)ほどにある。
その間に、さらに二ヶ所。
丸根砦*と鷲津砦*。
一、黒末入海の向ふに、なるみ(鳴海)、大だか(大高)、間を取り切り、
御取出ニケ所仰せ付けらる。
一、丸根山*には、佐久間大学(盛重)をかせられ、
一、鷲津山*には、織田玄蕃(秀敏)・飯尾近江守父子入れをかせられ
侯ひき。
(『信長公記』)
*鳴海城 愛知県名古屋市緑区鳴海町城
*大高城 愛知県名古屋市緑区大高町城山
*丹下砦 愛知県名古屋市緑区鳴海町丹下
*善照寺砦 愛知県名古屋市緑区鳴海町砦
*中島砦 愛知県名古屋市緑区鳴海町下中
*丸根砦 愛知県名古屋市緑区大高町丸根
*鷲津砦 愛知県名古屋市緑区大高町字鷲津
眠れぬ夜がつづく。
信長は、追い込まれた。
三ヶ国の太守。
圧倒的な兵力差。
なれど、勝手知ったる我が領地。
義元は、そこに来る。
信長の頭脳は、激しく回転した。
絵図を睨む。
策を練る。
「勝つ」
全知全能。
眠れぬ夜がつづいた。
⇒ 次回へつづく