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大高城趾に行ってきました。

13日前

永禄5年(1562)2月4日は松平元康(家康)が上ノ郷城を攻め鵜殿長照を討った日。長照は元康が大高城兵糧入れ時の城代。落城で長照の二子が捕らえられ元康の妻子と交換のため今川方へ送られた。城は元康の継父久松長家が有した。

家康ラップ⑥ 〜うっせぇわ〜

桶狭間の戦いで信長が考えた事

若き家康の人生を変えた地「大高」史跡めぐり〜鷲津砦・丸根砦と大高城跡〜

本能寺の変 1582 信長の台頭 3 259 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

11か月前

ここらへんの史跡をゆく⑨~大高城址

2020年 第24回伊豆文学賞 応募落選作

1年前

噂だけで城を明け渡すなど考えられない|『超約版 家康名語録』より(2)

家康ラップ⑤ ~勝利の信長・桶狭間~

永禄3年(1560)5月23日は桶狭間合戦後に大高城を退去した松平元康(家康)が岡崎城に帰還した日。今川義元が討たれた19日夜半に大高城を退去し翌20日に大樹寺に入っていた。岡崎城の今川軍が退去した後に入城したという。ただこれで今川家と敵対したわけでなく暫く織田方との抗争が続く。

永禄3年(1560)5月12日は今川義元の本隊が尾張を目指し駿府を出発した日。全体では2万5千ともいわれる大軍で先鋒として井伊直盛や松平元康が既に出発。義元は15日に三河の吉田城、18日には尾張の沓掛城に入り最後の軍議が行われた。19日に大高城へ向かう途中の桶狭間で休息をとる。

永禄3年(1560)5月18日は今川軍の松平元康(家康)が織田軍に包囲された大高城に兵糧を入れた日。今川義元の本隊に先行して元康は鵜殿長照が籠る大高城に兵糧を届けた。深夜から翌19日にかけ元康は丸根砦、朝比奈泰朝は鷲津砦を攻略。沓掛城を出た義元本隊は正午ごろ桶狭間山で休息をとる。

家康ラップ④ ~どうする信長・桶狭間~

第2回「兎と狼」(予習)

桶狭間の合戦が与えたもろもろの影響

大樹寺

若き家康の人生を変えた地「大高」史跡めぐり〜鷲津砦・丸根砦と大高城跡〜

家康さんひょっとすると・・・ 桶狭間の時には既に織田側に寝返ってたとかないかな? そうなると今川勢は織田軍と松平軍に挟撃されて 大高城もそちら側に寝返ってたとすると 3方向から攻撃されるわけだな それプラスひょっとすると西洋人とその傭兵も加わって どうだろう?

黒嶋敏『戦国の<大敗>古戦場を歩く なぜ、そこは戦場になったのか』山川出版社

1年前