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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 269 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

これについて、人々の風聞である。

 斯波義統・義銀父子のことを言っている。
   【参照】190~192
 
  是れ偏に、先年清洲の城に於いて、武衛様を、悉く、攻め殺し侯の時、
  御舎弟を一人、生捕り、助け申され侯。
  其の、冥加、忽(たちま)ち来たりて、義元の頸をとり給ふと、
  人々、風聞候なり。

掃討戦は、凄惨をきわめた。

 昇龍の如し。
 信長は、強運だった。
 「天」を味方につけた。

 義元は、信長を甘く見た。
 己の力を過信し、「油断」、したのである。
 
  運の尽きたる験(しるし)にや、
  おけはざまと云ふ所は、はざまくみて(狭間が入りくんで)、
  深田足入れ(足をとられ)、高みひきみ(高所低所に草木が)茂り、
  節所と云ふ事、限りなし。

  深田へ迯(逃)げ入る者は、
  所をさらず(脱出できず)、はい(這い)づりまはるを、
  若者ども、追ひ付き、々々々々、
  二つ三つ宛(ずつ)、手々(てんで)に頸をとり持ち、
  御前へ参り侯。

義元の首。

 父信秀以来の思い。
 信長は、満足した。
 
  頸(首)は、何れも、清洲にて、御実検と、仰せ出だされ、
  よしもとの頸を御覧じ、御満足、斜ならず。

信長は、清洲に帰った。

 凱旋(がいせん)である。

  もと御出で候道を、御帰陣侯なり。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく


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