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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 255 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
正親町天皇の即位礼が執り行われた。
同二十七日。
天皇は、この時、四十四歳。
廿七日、
即位ノ禮ヲ紫宸殿ニ行ハセラル、
(「史料綜覧」)
廿七日、甲午(きのえうま)、天晴、天一天上、
今日、御即位、未の刻(午後2時頃)始まる、
(「言継卿記」)
長慶は、警固役を命じられた。
長慶は、褒美として、太刀を賜った。
名誉この上なきことである。
今日、御警固、三好修理大夫長慶朝臣、
後に、御懸に於いて、御酒下され、御太刀拝領なり、
忝(かたじけな)しの由申し、御太刀、万疋の折り紙、進上と云々、
(「言継卿記」同日条)
朝廷は、衰微していた。
正親町天皇は、後奈良天皇の第二皇子。
永正十四年(1517)の生れである。
弘治三年(1557)、先帝の崩御により践祚した。
しかし、時は、戦国時代。
朝廷は、困窮していた。
そのため、即位礼を挙げることができなかった。
毛利元就らの献金によって、ようやく、この日を迎えることが出来た
のである。
⇒ 次回へつづく
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