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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 294 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

永禄五年(1562)

畠山氏は、勢力を盛り返した。

 戦場が、河内国から、和泉国に転じた。

長慶は、東西に敵を抱えていた。

 この頃は、六角氏との関係が悪化していた。
 この為、軍勢を、二手に分けなければならなかった。
 となれば、 
 東の、近江、六角承禎。
 西の、和泉、畠山。
 この様な、背景があった。

三好実休は、畠山氏へ向かった。

  三好物外軒入道実休(義賢)は、
  去年(永禄四年)より、
  和泉国久米田(大阪府岸和田市久米田寺付近)と云ふところに、
  陣取つて居たりけるが、
  年内は、たかひに合戦を止め越年し、

久米田合戦の事。

 同三月五日。
 畠山勢が攻め寄せた。
  
  明くる春、永禄五年三月五日、
  畠山高政、安見美作守(宗房)・遊佐河内守・根来衆を引率して、
  二手に分かれて責め来たる、

 実休は、軍勢を二手に分けた。

  三好方にも、篠原右京進(長房)を大将として、根来衆に、指し向かふ、

  一手は、実休、惣(総)大将として、畠山衆と馳せ向かひけるに、  
  此の衆、いまだ、矢合わせなき時分、

 両軍、激突。
 初めは、三好方が優勢だった。

  根来・安見衆、篠原衆と責め戦ひ、
  篠原衆、打ち勝ちければ、

 しかし、徐々に、戦況が変化していく。

  紀州衆、湯の川宮内少輔(直光)・堀の内・玉木、
  二の手にて、責め来たるけるに、
  篠原、忽(たちま)ち、打ち負け、引き退きければ、

 そうしている間に、三好方の陣形に乱れが生じた。

  三好山城守(康長)・下野守(政生まさなり=宗渭そうい)は、
  実休の手より、引き分かれて、湯川と合戦し、
  前後、相競ひ、雌雄を決するを欲す、
                         (「足利季世記」)

三好康長は、要注意人物。

 康長は、阿波の三好家(実休家)の家臣である。

光秀にとって、後に、因縁の人物なる。

 これについては、後述する。  
 

          ⇒ 次回へつづく


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