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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 254 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

永禄三年(1560)

三好長慶が上洛した。

 正月十六日。
 長慶は、年始の挨拶のため、嫡男義興とともに上洛した。

  十六日、癸未(みずのとひつじ)、天晴、寒嵐、時々雪飛ぶ、
  三好修理大夫、前筑前守、上洛と云々、
                          (「言継卿記」)
 

将軍義輝との関係は、良好である。

 少なくとも、表面上は、・・・・・。

  十七日、
  三好長慶、子義長ト共ニ幕府に参賀シ、
  長慶、相伴衆ニ列セラレ、
  義長、義輝ノ偏諱ヲ與(与)ヘラルルヲ謝ス、

  廿一日、
  筑前守三好長慶ヲ修理大夫ト為シ、其子義長ヲ筑前守ト為ス、
                          (「史料綜覧」)

  廿一日、
  みよし父子申す、
  おやはしゆりの大夫、
  子はちくせんと申す、
                      (「お湯殿の上の日記」)

          ⇒ 次回へつづく

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