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本能寺の変 1582 信長の台頭 2 251 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 2 尾張統一 

信長の評判である。

 都人の評価は、二通りに分かれた。
 
  京童二様に褒貶なり。
  大将の詞には、似相はず、と申す者もあり。
  亦(また)、若き人には、似相ひたる、と申す者も候へき。
                          (『信長公記』)

信長は、京を発った。

 同七日。
 奈良・堺へ向かったものと思われる。

  七日、己酉(つちのととり)、雨降る、天一下良、二月中、 
  一、尾州の織田上総介晝に立ち帰国すと云々、
                          (「言継卿記」)

信長は、八風越えにて清州に帰った。

 命懸けであった。
 信長は、無事、成し遂げた。 
 権威を喪失し、凋落した足利幕府の実態を、己の目で確と見た。
 体中に、抑えきれぬ若さと情熱が滾っていた。
 
  五三日(=半月)過ぎ侯て、上総介殿、守山(滋賀県守山市)まで御下り。
  翌日、雨降り侯と雖も、払暁に御立ち侯て、
  あひ谷より、はつふ峠(八風峠=近江~伊勢)越え、清洲まで廿七里、
  其の日の寅の刻(4時頃)には、清洲へ御参着なり。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく

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