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本能寺の変 1582 信長の台頭 1 243 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 1 信勝謀殺 

信勝が再び謀叛を企てた。

 この年(永禄元年1558)のことである。
 
  一、上総介殿信長公の御舎弟、勘十郎殿、
    龍泉寺*を城に御拵へなされ侯。
    上郡岩倉の織田伊勢守(織田信賢)と仰せ合はせられ、
    信長の御台所入(蔵入地)篠木*三郷、能き知行にて侯。
    是れを押領侯はんとの御巧みにて侯。

 
    *龍泉寺 愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目902
    *篠木   同 春日井市篠木町

信勝は、岩倉織田氏と繋がっていた。

 それも、以前から。
 「上郡岩倉の織田伊勢守と仰せ合はせられ」、とある。
 そして、その背後には斎藤義龍。

 信勝は、斎藤義龍と通じていた。

 義龍は、信勝の心底を知り尽くしていた。
 信長の敵は、己の味方。
 動きが活発だった。

柴田勝家が信長へ報せた。

 秘事が漏れた。
 
  勘十郎殿御若衆に、津々木蔵人とてこれあり。
  御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。
  勝ちに乗りて奢り、柴田権六を蔑如(べつじょ)に持て扱ひ候。
 
  柴田、無念に存じ、上総介殿へ、又御謀叛おぼしめし立つの由、
  申し上げられ候。
                          (『信長公記』)


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


          ⇒ 次回へつづく


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