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本能寺の変 1582 信長の台頭 2 250 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 2 尾張統一 

信長は、先制攻撃を懸けた。

 信長らしい。
 正面から。
 美濃の討手へ。

  夫(それ)より、御談合、夜も明け侯。
  右の美濃衆、金森存知の衆に侯間、早朝に彼の私宅へ罷り越し侯へと
  仰せ付けられ侯。
 
  丹羽兵蔵をめし列れ、彼の宿のうら屋へつつと入り、
  皆々に対面侯て、

 彼らは、驚いた。
 五百対三十人。
 万事休す。

  夕部(ゆうべ)、貴方ども上洛の事、上総介殿も存知侯の間、
  さて、参り侯、
  信長へ御礼申され侯へと、金森申し侯。
 
  存知せしむるの由侯つる。
  色をかへ仰天限りなし。

義龍の企ては、失敗した。

 手段を選ばず、である。
 「油断」
 それは、死を意味した。
 気の休まる暇などない。
 神経の磨り減る日々がつづく。
 
  翌日、美濃衆、小川表*へあがり侯。
  信長も、裁(立)売*より、小川表御見物として、御出で侯。
  爰(ここ)にて、御対面侯て、御詞を懸けられ侯。
 
  汝等は、上総介が討手にのぼりたるとな。
  若輩の奴原が進退にて、信長を躵(ねら)ふ事、
  蟷螂(とうろう=カマキリ)が斧(おの)とやらん。
  実(まこと)しからず。
  さりながら、爰にて仕るべく候やと、
  仰せ懸けられ候へば、

  六人の衆、難儀の仕合せなり。
                          (『信長公記』)

 
   *小川表 京都府京都市上京区小川町
   *立売  京都府京都市上京区裏築地町68
 

          ⇒ 次回へつづく

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