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本能寺の変 1582 信長の台頭 6 284 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 6 三好の絶頂 

長慶は、河内へ出陣した。

 三好長慶は、大永二年(1522)の生れ。
 この年(永禄三年1560)、三十九歳。
 健脚である。

  同(六月)廿九日、打ち立ち、
  四国衆は、河内の十七ヶ所え陣取り、
  長慶は、守口に陣を取る、

長慶は、畠山氏を攻めた。

 同年、七月。
 河内にて。
 戦いが始まった。
 圧倒的な戦力である。
 畠山勢は、歯が立たない。

  さすがに、難儀に思ひける、
  八ヶ所の湖水、当年の渇水にて、潟となる、
  七月三日、畠山衆、玉櫛*と云ふところにて合戦し、
  三好方、打ち勝ち、畠山衆、卅余人、討死す、

  四国衆は、若井(若江)と云ふ処え責め寄せ、
  同七日、太田・若林(八尾市)と云ふ処え陣替し、
  同十九日、藤井寺え陣取り、次第々々に、責め寄せければ、
  同廿二日、飯盛城より、安見美作守父子、大窪(八尾市)に取り出でて、
  合戦して、安見、打ち負け、引き退(の)く、

松永久秀が大和を攻めた。

 筒井氏は、畠山氏に与した。
 当主は、順慶。
 天文十八年(1549)の生れ。
 この年、十二歳。
 父、順照が、若くして没したため、家督を継ぐ(天文十九年1550)。
 叔父、順政がこれを後見した。 

  同七月廿四日、大和国、井土の城*(井土若狭守)、
  畠山方籠りたるを、
  松永霜台、大将にて、数日、責められける、

  筒井順照(誤り)、後詰の為に、出張して、松永衆と合戦し、
  散々に打ち負け、筒井方、廿四人まで討死す、
                         (「足利季世記」)

    *玉櫛   東大阪市玉串町?
    
*井土の城 井戸城(奈良県天理市石上町)。
          城主は、井戸良弘。妻は、順照の娘。 


          ⇒ 次回へつづく


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