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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 303 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

「永禄六年諸役人附」

 「永禄六年諸役人附」は、前半と後半に分かれている。
 何らかの理由で、接合されたらしい。
 以下は、その前半部分。
 すなわち、義輝の代。
 その頃の、幕府の体制である。

 少々、長くなるが、光秀の来歴に関わることなので掲載した。
 参考にされたい。

 なお、「永禄六年諸役人附」後半部分は、義昭の代である。
 これについては、先述した。
   【参照】義昭は、幕府の体裁を整えた。82
   【参照】番衆は、義昭の親衛隊。83
   【参照】光秀は、足軽にすぎなかった。84  

細川藤孝は、幕府の重役だった。

光秀の名は、この中にない。

したがって、光秀は、義輝に仕えていない。


   永禄六年諸役人附
      光源院殿御代、当参衆、並びに、
      足軽衆以下覚え、
        永禄六年五月 日

    御供衆(12名)
   大館陸奥守晴光
   同十郎輝光
   細川中務大輔輝経
   大館伊予守晴忠
   仁木七郎
   一色式部少輔藤長
   細川兵部大輔藤孝
   上野孫三郎
   一色兵部大輔輝清
   畠山尉松
   伊勢因幡入道心栄
   同七郎左衛門尉貞知

    御部屋衆(9名)
   細川宮内少輔隆是
   一色治部少輔輝喜
   朽木弥十郎輝孝
   上野与八郎
   杉原与七郎長盛
   荒川与三
   武田小次郎
   大館源五郎
   一色刑部大輔

    申次(17名)
   大和宮内大輔晴完
   小笠原備前守稙盛
   荒川治部少輔晴宣
   三淵伊賀入道宗薫(細川藤孝の実父)
   彦部雅楽頭晴直
   伊勢加賀守貞助
   海老名刑部大輔頼雄
   飯川山城守信堅
   進士美濃守晴舎
   一色市正信忠
   千秋左近将監輝秀
   小笠原又六
   伊勢又七
   海老名次郎
   武田宮内大輔
   祭主権大副康忠
   安東蔵人泰職

    外様結衆以下(57名)
   摂津掃部頭晴門
   波多野彦五郎
   有馬源次郎
   本郷与三郎
   石谷孫九郎頼辰(よりとき)*
   大館兵部少輔藤安
   進士源十郎藤延
   角田采女正藤秀
   安威兵部少輔藤備
   三上藤三郎安好
   (以下略)

    御小袖御番衆(10名)
   大和治部少輔孝宗
   伊勢次郎左衛門尉貞満
   高伊予守師宣
   二階堂山城守
   片岡大和守晴親
   片岡与五郎輝親
   石谷兵部大輔光政*
   (以下略)

    奉行衆(16名)
   (略)

    同朋衆(11名)
   (略)

    御末之男(7名)
   (略)

    足軽衆(27名)
   (略) 
                      (「永禄六年諸役人附」) 

石谷頼辰は、光秀の重要人物。

 *石谷頼辰は、斎藤利三の実兄。
  石谷光政の養子となる。
  光政の娘が長宗我部元親に嫁ぐ。
  頼辰の義妹である。
  したがって、元親は義弟にあたる。
  その様な縁があり、光秀と元親の橋渡し役となった。
  この頃は、義輝の家臣だった。
  光秀との関係は、もう少し後のこと。
  本能寺の変後は、土佐に逃れ、元親に仕える。
  きわめて重要な人物である。
  要、注目。 

石谷光政は、長宗我部元親の舅にあたる。

 *元親にとって、光政は、舅。
  頼辰は、義兄となる。
  時期はわからぬが、やがて、土佐に移り住む。
  父子は、元親から厚い信頼を得て厚遇された。
  
  これらについては、後述する。


          ⇒ 次回へつづく


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