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本能寺の変 1582 信長の台頭 6 288 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 6 三好の絶頂 

松永久秀が大和を平定した。

 久秀は、新たな大和の支配者となった。
 信貴山城を居城とする。

  かくて、大和国衆、いまだ、畠山一味なれば、
  同十一月、松永霜台、摂州衆、引率、
  大和国、沢(大和の国人沢氏)、日(檜)の牧の城(宇陀市)を攻めらるゝ、

 大和の国衆、次々に降る。

  同月十三日、同国、萬歳城(大和高田市)主、萬歳大和守も、
  松永え降参す、

  同十八日、泊瀬(初瀬はせ=桜井市)の桜坊の城も、
  聞き落ちして、退きけり、

 久秀は、檜牧城に高山飛騨守を入れた。
 右近の父である。

  同廿四日に、沢、日の牧の城も、こらえか子(ね)、
  噯(あつかい)にして、退ければ、

 斯くして、大和の平定、成る。

  松永、一国平均に治めて、信貴(しぎ)城に居城しける、
  是れは、木沢左京亮長政がとり立てし城と聞こえける、
                         (「足利季世記」)

この頃、筒井氏は没落していた。

 前年(永禄二年1559)、筒井氏は、松永久秀の攻撃により、
 筒井城を奪われた。
 以後、順慶・順政は、椿尾城(奈良市北椿尾町)を本拠とする。
 久秀の攻勢により、勢力が衰退していた。
 順慶は、まだ少年である。
 忍耐の時がつづく。
   【参照】松永久秀が大和を攻めた。284

長慶は、河内と大和を手に入れた。 

長慶、得意の絶頂である。

 将軍義輝を手元に置き、五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)のみ
 ならず、丹波・播磨にも、大きな影響力を有していた。
 そればかりでなない。
 三人の弟たちがいる。
 三好実休、阿波と伊予の一部。
 安宅冬康、淡路島。
 十河一存、讃岐。
 これらを合わせれば、さらに、広大な版図となる。
 対抗し得る勢力などいない。
 正に、三好の「天下」。
 三好氏の時代だった。
   【参照】長慶は、有力な弟たちに支えられていた。246

          ⇒ 次回へつづく


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