見出し画像

本能寺の変 1582 信長の台頭 3 260 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

今川義元が沓掛に到着した。

 同十七日。
 義元は、確信していた。
 「勝利」
 その上での出陣だった。

 『信長公記』には、「天文廿一年」とある。
 だが、これは誤り。
 正しくは、「永禄三年年」である。
 
  天文廿一年、壬子(みずのえね)、五月十七日、
  一、今川義元、沓懸へ参陣、

信長、動かず。

 同十八日。
 丸根砦の佐久間大学から注進があった。
 
  十八日夜に入り、(義元は)大高の城へ兵粮入れ、
  助けをなき様に(織田の援軍が来ないうちに)、
  十九日朝、塩(潮)の満干を勘(考)がへ、
  取出を払ふ(攻撃)べきの旨必定と、相聞こえ侯ひし由、

  十八日夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより
  御注進申し上げ侯ところ、
 
 
 なれど、動かず。
 「義元は、沓掛にいる」
 その間合いを見ていた。

 肚は、すでに決まっていた。
 
  其の夜の御はなし、軍(いくさ)の行(てだて)は、
  努々(ゆめゆめ)、これなし。
  色々世間の御雑談までにて、
  既に、深更に及ぶの間、帰宅侯へと御暇下さる。
 
  家老の衆申す様、
  運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、
  各(おのおの)、嘲弄候て、罷り帰られ侯。
                          (『信長公記』)

          ⇒ 次回へつづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?