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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 264 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

信長は、中島砦に入った。

 信長は、佐々・千秋らの軍勢が出撃したのを見た。
 その隙に、中島砦に入る。
 桶狭間へ、凡そ半里(2km)。
 指呼の距離にいた。
 
  信長、御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、
 
  脇は、深田の足入れ、一騎打ちの道なり。
  無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。
  御勿体なきの由(=良くない)、 
  家老の衆、御馬の轡(くつわ)の引手に取り付き侯て、
  声々に申され侯へども、

  ふり切つて中島へ御移り侯。

この時、信長の軍勢は僅か二千。

 不完全とはいえ、尾張統一の後である。
 実際は、もう少し多かったのではないか。
  
  此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。
                          (『信長公記』)

 太田牛一は、信長の家臣。
 今川・織田の兵力について、義元の軍勢を過大に、信長のそれを過少に、
 書き表すことによって、織田方の勝利を際立たせようとした。
 その様に、思う。


          ⇒ 次回へつづく


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