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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 295 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

三好実休の本陣がガラ空き状態になった。

 畠山高政は、それを見逃さなかった。

  其の間、大将実休の陣、人・衆、あらは(露わ)に成りければ、
  畠山高政、荒(新)手を乱して切りかかりければ、

 実休の本陣である。
 状況、一変。
 壊滅的事態に陥った。
 「危うい」 
 側近たちが、実休に脱出を進言した。

  実休の本陣の足軽、散々に、懸かり負け、已に難儀に及びければ、

  実休の旗本にありし士(さむらい)ども、
  大将を引き立て、はや、退き給へ、一まづ(先づ)は、落つべしと、
  いさ(諫)めたれども、

 
しかし、時、すでに、遅し。
 実休は、覚悟を決めていた。
 それを受け容れず。

  実休、申されけるは、
  吾(わ)れ、運命、盡(尽)きぬると、思い切る間、
  のが(逃)れても叶うまじ、

  尋常に、打ち死にすべし、

 実休は、主君、細川持隆を殺害した。
 持隆は、阿波の守護、
 下剋上である。
 これは、十年前。
 天文二十二年(1553)、六月九日のこと。
   【参照】三好義賢の下剋上。189 

  其の子細は、先年、細川讃岐守殿を、
  聟(聟)・舅の好(よしみ)を思ひ奉らず、打ちて、
  其の霊魂、吾等父子の夢に見得(え)、
  恨み給ふ事、度々なり、

  今に、月日こそ多き中に、讃州の生害の日、
  三月五日、此の軍(いくさ)、俄(にわか)に、味方、打ち負け、
  かように(斯様に=このように)、成り行く事、只事ならず、

  ひたすら、打ち死にして、名を挙ぐる外はなし、とて、
  一首の歌を詠じける、

   草か(枯)らす、霜また今朝の、日に消えて、
     報いの程は、ついにのが(逃)れじ、
                         (「足利季世記」)

 
         ⇒ 次回へつづく


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