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本能寺の変 1582 信長の台頭 1 240 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 1 信勝謀殺 

永禄元年(1558)

 二月二十八日、改元。

信長は、岩倉織田氏を攻めた。

 七月十二日。
 信長は、出陣した。
 標的は、尾張上四郡守護代家。
 当主は、織田伊勢守信賢。
 父信安を追放し、跡目を奪い取った。
 岩倉城に居す。

信賢は、信勝と通じていた。

 このことは、後でわかる。

背後に、斎藤義龍の影がちらつく。

 義龍の手がのびていた。
 信長にとっては、目障りな存在。
 どうしても、片づけねばならぬ相手だった。

信長は、岩倉勢を城から誘い出した。

 同日。
 岩倉城*は、清洲*から北東へ凡そ二里(8km)。
 信長は、大きく迂回して、その背後に回り込んだ。
 城の北西、一里の地。
 浮野*に、誘き出す。
 
  一、七月十二日、清洲より岩倉へは三十町に過ぐべからず。
    此の表、節所たるに依つて、三里上、岩倉の後へまはり、
    足場の能(よ)き方より、浮野と云ふ所に、御人数備へられ、
    足軽かけられ侯へば、
    三千計り、うき々々(落ち着かない様子)と罷り出で、相支へ侯。
                          (『信長公記』)

 
  *清洲城 愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
  *岩倉城  同 岩倉市下本町城址
  *浮野   同 一宮市千秋町浮野。

信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


          ⇒ 次回へつづく


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