本能寺の変 1582 信長の台頭 8 307 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 8 三好の衰退
三好義興が病死した。
同年(永禄六)、八月。
突然、だった。
黄疸、と云う。
八月廿五日、長慶の一子、筑前守義興、芥川城において、御早世あり、
黄疸と云ふ病、起こりて、忽(たちま)ちかくれ給ひけり、
父の匠作(修理の唐名=長慶)は、申すに及ばず、
公方も、御愁傷かぎりなし、
その死に、疑念が残った。
「毒殺」、・・・・・。
「松永久秀」、・・・・・。
真偽の程は、わからない。
如何なる故ありてにや、
近く召し使ふ輩の中より、食物に毒を入れて奉り、かく逝去あり、
と、後に聞こえけり、
また、松永のわざとも申しける、
(「足利季世記」)
三好氏に不幸がつづく。
永禄四年、十河一存。
永禄五年、三好実休。
永禄六年、嫡男義興。
長慶は、生きる希望を失った。
長慶に、子は、義興ただ一人。
義興が全てだった。
その義興を失った。
偶然なのか。
はたまた、・・・・・。
正に、急転直下。
盛りの天辺(てっぺん)から、奈落の底へ。
⇒ 次回へつづく
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