本能寺の変 1582 信長の台頭 8 301 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 8 三好の衰退
しかし、実休は帰らず。
長慶は、さらなる、不幸に襲われる。
そして、それは、やがて、阿波へも飛び火して行く。
これらについては、後述する。
三好長治が実休の後を継いだ。
同十一月。
高屋城である。
阿波三好家(実休の家)の重臣たちが集まった。
主君の死=御家の危機。
「若子様、御幼少の間」
後継者長治は、まだ幼少だった。
彼らは、一致団結して、これを支えることを誓約した。
その、起請文である。
定 条々
一、高屋在城に付きて、各(おのおの)、水魚の思ひを成すべき事、
一、若子様(長治)、御幼少の間は、私の愚意を打ち置き、
御家の然るべき様に心持ち致すべき事、
一、或いは知音、或いは与力・被官人、
各、相肯定の旨、謂はざる族(やから)これある時、
寄り親または縁者として、其の違を知りながら、取り育み、
申し沙汰の事、
(決定したことに背く者への取り締まりについて)
一、各、諸事相談せしむるのところ、
私曲を構へ、勝手次第に申し噯(あつか)ふ事、
一、諸御公物等、各、同心なきところ、御訴訟を号し、抑留の事、
付けたり、康長、算用事、
一、公事、或いは喧嘩等出来の刻(きざ)み、
死人より、これありと雖(いえど)も、
遺恨を閣し、以って、穏便に相理り、有様次第に相果たすべき事、
(訴訟・揉め事・喧嘩を穏便に処理すること)
一、各の内、万一、私曲を相構へず、誤り定儀を相破る、これあらば、
惣中として、達して、申すべき事、
右条々、聊(いささ)か以って、相違有るべからず、
若し、偽り、これあらば、
日本国大少神祇、八幡大菩薩、殊に氏神三十番神、十羅刹女、
天満大自在天神、罷るべき御罰を蒙る者なり、
仍って、起請文、件の如し、
永禄五年 篠原玄蕃助
十一月廿九日 長秀(花押)
加地六郎兵衛慰
盛時(花押)
三好山城守
康長(花押)
矢野伯耆守
虎村(花押)
吉成出雲守
信長(花押)
三好備中守
盛政(花押)
三好民部慰
盛長(花押)
市原石見守
長胤(花押)
伊沢因幡入道
長綱(花押)
(「森田文書」)
⇒ 次回へつづく
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