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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 297 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

畠山方は、勢いづいた。

 大勝である。
 「悦ぶ事、限りなし」
 これで、一挙に、形勢が逆転した。
 今度は、畠山氏が優勢になった。

畠山高政は、河内を取り戻そうとした。

 三好氏に奪われた、己の領国。
 その奪還を目指す。

  残る人々、散々に、成りにければ、
  高屋城も自落し、
  飯森(盛)の外の城々、一つも残らず、聞き落ちにしける、

  岸ノ和田城に、安宅摂津守冬康ありけるが、続く勢もなければ、
  明ける日、明けて、退(の)ければ、
  畠山方、細川刑部大輔、入城しける、
  是れは、藤孝の養父なり、

畠山氏は、飯盛山へ攻め上った。

 元の主は、安見宗房。
 今は、長慶の居城になっている。

  かくて、畠山方、大なる勝ち軍(いくさ)して、悦ぶ事、限りなし、
  さらば、しばらく休みて、
  三好修理大夫長慶の籠りし飯盛を、取り巻ひて、責め落とせとて、
  同年(永禄五年)四月五日より、打ち立ち、
  同五月十九日まで、日々に、責め戦ひけり、  

長慶、危うし。

 実休、死す。
 かなり、堪えたのだろう。
 四人の兄弟が、半分になった。
 「気力喪失」
 ・・・・・。
 長慶は、動かない。
 「危うい」
 「急がねば」
 松永久秀が意見を具申する。

  松永弾正久秀は、大将長慶の前に来りて、申しけるは、

  実休、打ち死にありて、
  高屋城・岸和田城も落城して、
  此の城をば、八重・九重、取り巻き、
  惣責(総攻)めにすべしと、申し候、

  急ぎ、後詰の勢を催し、敵を追い払ひ給へ、
  と、申しけれども、
                         (「足利季世記」)


          ⇒ 次回へつづく

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