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本能寺の変 1582 信長の台頭 2 245 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 2 尾張統一 

永禄二年(1559)

将軍義輝は、京にいた。

 五年前、天文二十二年(1553)。
 三好長慶の下剋上により、義輝は朽木へ追放された。
  【参照】上総介信長 3 三好長慶の下剋上 195~198

 ところが、前年、永禄元年(1558)。
 和睦が成立。
 義輝は、五年ぶりに京に戻った。
 幕府の衰退。
 将軍は、傀儡にすぎない。
 目まぐるしい変化である。

 正月七日。
 年始の挨拶である。
 山科言継が祗候した。
 
  七日、庚辰(かのえたつ)、天晴、
  今日、武家(将軍義輝)へ御礼に参る、
  内蔵頭・薄等召し具し、
  供、大沢出羽守・同左衛門大夫・沢路備前守・同隼人佑・同孫七郎・
  同新四郎・小者両人等なり、
  午時、御対面なり、
                          (「言継卿記」)

三好長慶が上洛した。

 二月二日。
 芥川山城(大阪府高槻市)から、京へ。
 義興を同道した。
 
  二日、甲辰、天晴、天一天上、
  一、三好筑前守・同子孫次郎、摂州芥川より上洛と云々、
    当年、始、相国寺に寄宿と云々、
                          (「言継卿記」)

          ⇒ 次回へつづく



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