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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 302 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 8 三好の衰退 

永禄六年(1563)

細川藤孝は、将軍義輝に仕えていた。

藤孝は、将軍の側近「御供衆」だった。

 正月一日。
 山科言継が将軍御所に祗候した。
 その時の様子である。
 御供衆の中に、その名が見える。
 御所の様子がよくわかる。

  一日、庚辰(かのえたつ)、天晴、天一西、
  未の刻(14時頃)、武家に参る、
  (中略)
  御小座敷に於いて、御対面、

  公家、広橋大納言・予・飛鳥井中納言・新宰相・内蔵頭・
  飛鳥井少将・日野侍従・竹内蔵人等なり、

  外様に、摂津掃部頭、
  御供衆、大館十郎・同伊予守・上野民部大輔・
  細川中務大輔・同兵部大輔(藤孝)・一色式部少輔・
  伊勢七郎左衛門・伊勢七郎左衛門、
  御部屋衆、申し次番方以上七十計(ばか)りなり、
  今日の申し次、大館伊予守なり、

  次、慶寿院殿*へ参る、
  各(おのおの)に、御小盃下され、次、御酒これ有り、
  次、御台へ参る、
  御小盃・御酒これ有り、
  次、御さ五、小侍従局等へ礼申し候ひおわんぬ、
  次、春日局に見参、御酒これ有り、
  公家衆、各、同然、
  奉公衆、少々、
  申の下刻(17時頃)、帰宅しおわんぬ、
                          (「言継卿記」)

    *慶寿院 義輝の母。近衛尚通の娘。
         永禄八年1565、三好義継・同三人衆らの謀叛に
         より、義輝とともに殺害される。


          ⇒ 次回へつづく


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