「人口減少(労働力不足)時代」における「多様性」と「批判的思考」、「対話」の重要性(帰国子女受け入れ校におけるパワハラ問題と国立大学費値上げ150万問題から考える)
既得権益者の主張する多様性は、本来の意味の多様性ではなく【多様性の名のもとに行う排除や暴力】となりうるので注意が必要である。
慶應義塾大学塾長伊藤公平氏による「大学教育の多様化に向けて」なる中央教育審議会高等教育の在り方に関する特別部会への提言資料を見て頭を抱えながら思った。そしてこれは元所属(高校)の行政部専任および法人へもきれいに当てはまることだと気付いた。
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帰国子女受け入れ校である元所属(高校基督教大学高等学校、通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)や「人権」や「多様性」を謳っているはずの国際基督教大学(通称ICU)法人における感染対策にかかるパワハラ追い出しとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。
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政策、広報、広告内で多用される「なんとなく良さそうな響きを纏うことば」には深く注意する必要がある。たいていそれらはそのイメージを利用して相手の感情動かすために意図的に用いられるものである。批判的思考、検証無しに鵜呑みにしていると(実情とは程遠いのにズレが無いように思い込まされ)まんまと騙されたり、幻想妄想を信じ込まされ無意識のうちに発信者の意に沿う行動をする状態にさせられたりする(政治や思想的なものであればいわゆるプロパガンダで心を染められ持っていかれる、広報や広告であれば入学入信含む契約や支出消費を生む等)。そのため、メディアリテラシー、問い批判的に検証する姿勢が必須になるのである。
「多様性」は、筆者が在籍した「大学」の広報でも、元所属(高校)の広報でも多用されている語である(近年はSDGsとの兼ね合いもあり、より一般でも「ポジティブワード」的位置付けで用いられることが増えてきたように思う)。
しかし、そのように「多様性」を主張する組織「国際基督教大学法人」内で、筆者は「異なる(感染対策をしたくない者にリスクを突きつけられ続け感染させられたくない、合理的な感染対策をしながらリスクを下げ安全に持続可能な形で勤務したい、それが無理であれば感染させられない業務内で勤務したいと考えていた)者、(よりによって下僕の非常勤講師のくせに)権威に歯向かう者・組織の敵」として、まずは「元所属(高校)」行政部、専任に「業務剥奪」→「退職」の形で見事「排除」され、その過程や手続きに対する異議申し立てについても「法人」に完全に「無視」された(他の多くのことと同じように)。
「多様性」とはいったい何だったのか。
筆者がかつて過ごした「大学」の環境では、広報通りの「多様性」が、教員間、学生間、教員ー学生間でも確保されているのを実感でき、だからこそ自分も存在してもよい/できうる場所もあるのだと、ある程度思えたことで生を繋いできた過程が筆者にはあった。
「大学」建学の理念に基づき、「人権」、「対話」、「多様性」を尊重した環境や「平和」を模索する「法人」だったはずではなかったのか。虚しさばかりが残る。
これは「人権委員会」主催ではないセミナー。広報ではこのように発信し、「平和」だの「和解する努力」だの「身の回りで気付きついている人たち、弱い者たちの声を丁寧に聞く」だのに共感するように装いながら、実際にはそれと真逆のことが平気で行われているわけである。
そして「人権」を尊重すると主張している「法人」が見事に自死者を生産することになる。最後まで叶わなかったが、筆者の件を「建学の精神」や広報と照らし合わせて正面から「大学」がどうとらえるのか、聞いてみたかった。無事に成し遂げられた暁にはさすがに「法人」も対外的に説明対応せざるを得なくなるはずであるが、それを聞けないのは残念である。しかし仕方ない。私が「非常勤講師」もしくは「私」である限り、法人は【無かったことにする】のみなのだから。私が私でなくなることでしか何も解決しない。
「自己責任」は巡る。
(言語や文化、弱者に対するまなざしを含む構成員の質について)「大学」と「高校」は違うと思うことや違和感は以前からあったが、元所属(高校)には、感染【非】対策、筆者に対する「敵認定」や「追い出し」で、やはりそうか、どれだけ美辞麗句を並べそれらしきことをしているように表面的には形を作っていても、本質的なところが伴っていないから軽薄な感じがしていたし、平気でこういうことも起きるんだよなと、ある意味興味深く、感心させられた。
去年、キャンパス内でびっくりするような形で倒れていた木。太く大きな地上部に比して根が全く張れていない状態。重さに耐えきれず根っこから掘り起こされる形で倒れたようだ。すごい勢いだったろう。人がいなくて良かった。根無しの虚像も同じように突如崩壊する。先日産寧坂の桜も倒れたけれど、木を維持するには根を守り育て土を作らなければダメ。良さそうな言葉を取ってつけただけの内実伴わない広報には全く意味が無い。大風呂敷広げるだけ広げて耐えきれなくなり根こそぎ倒れる前に手を入れれば良かったのにね。
極めて同質性の高い集団内の利便性や利益を中心に、それ以外の価値観や自分達に負荷がかかること一切を切り捨て、都合の悪いことは見ない聞かない認めないで押し通し潰すーそれはまさに私が「大学」(「人権」や「多様性」、個の尊厳が保障され、理性や教養、論理で平和や共生、問題解決の道を模索する、公正な世界)に入ることで抜け出したはずの、吐くほどお馴染みだった日常、「である」の世界の理不尽、暴力の構造そのものだった。
「である」の世界では「所与」の権威構造が絶対である。そして「権威者」の「お気持ち」を中心に全てが決まり回る。問い、検証、反対は御法度で、そのように場を乱すものは「反逆者」として容赦なく攻撃される。そして権威者や集団の「見たいように」世界は解釈される。それが現実事実とずれていても(認知が歪んでいるから)気付かないか、気にしないか、あえて無視黙殺をする(そうしないと都合が悪いから)。都合の悪いことは「皆で無かったことにすれば、【無かったことになる】」のだ。利権集団の結束は固い。御恩と奉公、飴と鞭。集団の内に染まらない、「お仲間」として望み通りの働きをしない「反逆者、敵」は攻撃すればいいし追い出せばいい。そうして全ては権威者と集団の利に収斂していくのだ。
知っていた。
「である」が全ての「理」の全く機能しない集団内で、「劣位」の「非常勤講師」に、ましてや「反逆者」としての「敵認定」が加わればもうどうにもならない。
理不尽な集団が理不尽なことを行うのは不適切だが当然のことなのだ。
だから筆者は、かつて信じられると思っていた「大学」へ申し立てをしに行った。
「大学」は違う。きちんと「理」が通るはずだから、理不尽の理不尽さ、特に「建学の理念」と照らし合わせた際の致命的な不適切さに気付き、目を逸らさないはずだ、「大学」なら、、
その結果、全てを打ち砕かれたわけだが、筆者に関しては(法人と同じ意味での)「合理的」な解決をはかるのだからそれでよい。終わりは救いである。延々と繰り返される理不尽と暴力から「この世界では」抜け出ることができないのなら、「この世界を抜け出ればよい」。実にシンプルである。無論、"new day"にも期待はできない。しかし、全てが無駄で不毛な暗闇の中よりはマシである、可能性はある。マイナスよりゼロはプラスである。
かつて「大学」の多様性を確保していた非常に重要な要素は「批判的思考」の重視と「バイリンガリズム」の追究により習得された論理、理性と複合的な視点に基づく「対話」 だったのだろうなと今は思っている。いずれも「高校」の環境には欠けていたものだ。
これまで気付かなかったが、広報にも無いということは校内で「理念」としても意識、共有化されておらず、当然日々の実践にも、新規教員採用の際の人選にも反映されることが無いということである。そう考えれば元所属(高校)の環境や構成員の性質で怪訝に思っていた点も腑に落ちる。(対して、「大学」では理念化共有化されているので、それが「教員」の人選にも実践にも浸透しているのでろう。)
その昔、私が(あれだけ、少なくとも高3の冬休み前までは大学へは行かないと言っていたのに)何故か(当時の記憶が飛んでいるので実は具体的なきっかけは思い出せない)翻意して大学へ行くことにしたのも、それが「あの大学」だったのも、謎感覚がこの辺りの連関を捉えていたからなんだろうな。この一年、最後の最後にも気付くことがたくさんあった。
「批判的思考」は広報上でも「大学」では多用されている一方、「高校」にはほとんど見られない。また教育環境の中でも、「大学」では核になっていたが、高校では耳にすることがまず無かった(だからこそ筆者は意識して生徒に伝えていた)。
筆者は生育環境の問題、その中での致命的な出来事と絶望の影響で、元々何も誰も信じられないし、特に「外面が良い人物や組織集団」についてはより一層警戒懐疑する傾向があるのだが(筆者に危害を加えてきた者達も「外面は」よかったため。なお、大学の友人には「野鳥は"critical"なんじゃなくて"skeptical"なのでは?」なんて笑われたりした)、少々度が過ぎるものの、眼前のものを鵜呑みにせず検証する癖がついていることはデータの取り扱い等学問的にも活かされたし、筆者のしばしば一般とは異なる(想定幅が広過ぎたり深過ぎたりする)解釈や反応、一般が気に留めない点への着目などは面白がってもらえることも多かった。「違いが受け入れられる素地のある人、環境」に/では。
だからそれまで沼に埋めていた視点や考えも少しずつ外に出せるようになった。年上でも立場や身分が違っても、たとえ意見が違っても、「大学」では一切否定攻撃されることは無かった。論理や理性のもとに、質問、検証、反論も認められ、さらに建設的、生産的な議論やその先を生むきっかけとなった。
「大学」では問うこと、「対話」が非常に重視されていた。受け入れられ、歓迎され、重宝された。それらは「である」の世界では禁忌であり絶対に成立しないことである(権威者や集団の利便利権、「所与」の安定継続を崩してはいけないから)。
こんな環境もあったのかと思った。目から鱗状態だった。そして友達とも先生とも色々なことを話し合った。意見が違ってもむしろだからこそ楽しかった。
「バイリンガリズム」についても、「大学」の広報では見られる一方、高校では見られない(元所属はバイリンガルを育成する高校ではない。元々海外でバイリンガルになった生徒や英語を中心に高度な外国語運用能力を獲得した生徒を受け入れているだけで、バイリンガルどころか、特に日本語運用に困難を抱える帰国生へは日本語能力伸長はおろか最低限の言語サポートと日本語による学習の保障すら放棄している状態であり、実質的には入学前にバイリンガルになっていた生徒以外は日本語もしくは英語のいずれかを伸ばすことを選択し、進路を切り開いていかなければならない、言語習得的には「引き算」の環境である)。
私は結局バイリンガルにはなれなかったし、大学の言語教育環境にも思うことは実はあったりするのだが、それはそれとして、少なくとも教員も学生も(English speakers以外は)、二言語以上を一定レベル以上で運用でき、それを可能にする経験や学習歴を通した「目」を持つ人々が「大学」には集まっていると言える(筆者もアイデンティティ的にはバイリンガルではないが、バイリンガルの世界を知っている者ではある。バイリンガルとは巷のイメージとは異なり、いわゆる英語をはじめとする外国語がペラペラ状態ーネイティブに近い発音で流暢に会話をすることが必要条件でも充分条件でもない。重要なのは発音や会話の先、抽象度が上がり高度な言語運用を伴う読み書きや思考の部分で、そこまで到達していない場合にはいくら発音がよくても不十分だし、逆に言えば、たとえ発音がいくらカタカナイングリッシュだったとしてもバイリンガルではありえるのである。大学にはこのようなバイリンガルの先生もいらしたし、発音から文化習得まで伴ったバイリンガルの先生もいらした。つまり、バイリンガル度合いについても大学は多様だったと言える)。
一方、高校の場合は、生徒の【一部】(大まかに言うと英語も現代文も両方L2以上にいる層)はバイリンガルになり得るし、英語科など教員の【一部】にバイリンガルと言い得る二言語運用能力を持つ者はいるが、基本的には、生徒は強い言語+弱い言語の組み合わせで弱いほうを補っている、会話は両言語で行えても学習は一言語+α状態の者が大半で、教員は圧倒的に日本語中心+あくまで「外国語」として英語その他の学習歴がある程度の(第二言語、学習言語として日本語以外の言語に/を接し用いた経験が無い)ほぼモノリンガルが大半の環境である。加えて、生徒に関しては運用能力が高度なレベルまで追いついていない場合にも海外生活歴もしくは海外への関心によって、また、様々な背景を持つピアとの学内での交流によって、文化や思考(へ)の柔軟さが見られるが、教員は【一部】に海外体験のある者はいるものの、専任の世代交代と共に新規採用者として校内主流派に近い価値応募者が選抜されることが繰り返され、短期間に専任の半分が入れ替わる中、非常に同質性が強い集団ができあがった(私立校は公立とは異なり教員の異動が無く専任の場合は理由が無ければ同じ構成員と定年まで勤め上げの環境である。そのため「煮詰まっていく」。)
さらにこれが、悪い意味で(「国際」とは真逆の)日本的な、上位下達の権威主義官僚主義全体主義的集団性強化となった、つまり、建学の精神ではなく構成員の性質や利便性の方向へ「煮詰まって」いるのである。そして、専任非常勤間の格差圧政不対話が当然視され、専任間でも主流派の独裁状態で傍流が出て行かざるを得なくなるなど、アピールされている「多様性」とは真逆の現状が積み重なっている。
言語的にも文化的にも「モノリンガル」な利権集団は一つの言語、一つの視点、その中で快適な、自分達に都合のよい世界を「仲間」と維持する。そこで求められるのはまずは「同化」であり、さらに「劣位」の者(非常勤講師)は黙って権威者(行政部専任)のご意向に従いきちんと「駒」としての役目を果たすことである。
「違う」者「染まらない」者は「仲間」ではなく、特に集団の快適さを揺るがすような者は「敵」として「排除」するのが「である」の民の掟である。
ここにさらに固定化した権力構造も乗ってくる。「劣位」の者については自分の意志を持たず権威者の「お気持ち」のままに動く限りにおいては集団の中に「置いておいてやっている」状態だが、「下僕」のくせに人扱いを求めるなど言語道断であるというのが権力者様方の感覚である。だから、「劣位」の側からの話は、全く聞く耳が持たれないし、伝わらないし、そこから何も変わらないし、それすら気付かない認めない、果ては隠蔽黙殺の「自己責任」で一丁上がり!ということになる。方向は常に決まっていて一方通行の上位下達。逆はあり得ないというのがこの世界の圧政、独裁性の習性である。たとえ目の前に「下僕」がいたとしても「人として」はいないのだ。「人」でない者に「人権」は不要ということだろう。
「バイリンガル」的な集団は(完璧に4技能や文化習得等を伴わなかったとしても、その過程で)存在する違いを無理矢理一つにする(強者の側に合わせさせる)「同化」ではなく、違う世界を知り、違いを想定し、受け入れ、「共生」を模索する体験を経てきている。(「日本語」教員養成プログラムの中にも「英語」科の教職課程の中にも「異文化間コミュニケーション」に類する科目は必修で入っているし、言語/外国語教育を志す層は一般に「他文化」や「多文化共生」への共感や関心が高い。一方、「国語」科にはそのようなものは必修ではない。基本的に「国語」は日本語を母語とし日本で生育され教育を受ける主として日本人をターゲットに行う「違いや多様化を想定しない」科目だからであろう。そしてここが「日本語生」への「国語科」や「行政部」、「高校」のまなざしの源である。が、話を戻す。)大切なのは「複数の目、視点」だ。そして、この「違い」を想定し、自分と異なる、自分と同じように尊厳を持つ者と向き合う試みとして「対話」も連関している。
「対話」とは"monologue("mono"="1")"ではなく"dialogue("di"="2")"、二者間に起こる、それも西洋的な「それぞれに異なり、尊厳を持つ個」が向き合って行うもの、予めどちらが優位/劣位かなんて決まっていない、フラットに、自由な関係性において成立するものである(一方にとって相手が「非人」扱いであれば「二者間」にはなり得ないので当然「対話は成立しない」。「所与」の権力差が固定化している高校行政部、専任(優位な立場にある強者)と筆者(劣位に置かれる弱者)の間に対話が成立しなかったことについては何の不思議もない。「下僕」の非常勤講師など、"2"のうちの1"には到底なり得ない、個として認めるべき存在ではないわけだ)。
だから、高校で起きた理不尽については不適切だとは思ったものの、当然起き得ることであるし、「所与」で「固定」の「である」の世界に一切改善は見込めないから、筆者は「大学」へ向かった。「大学」であれば、「人権」も「多様性」も「今でも」維持されているはずだと信じ、たかったからだ。
しかし誤算は、まずは「大学」の案件ではないと「【大学】人権委員会」への申し立てが取り下げられたこと、その後は「高校」(敵陣)に議題を移譲し形だけ会議の実績を作り、不合理(な追い出すための時間割)を「不合理ではない」と主張する立場の側から何の説明も無しに「不合理ではない【ことにした】」上に、筆者が重大視していた、専任/非常勤間の圧倒的な権力差に起因する人権侵害、ハラスメントー何度も苦痛であると伝えたにもかかわらず改善されなかった、専任達のホームである(非常勤はいさせてやっている)研究室内のノーマスク無換気及び換気妨害、2020年度から何度も感染対策が弱い環境下では行えないと「書面」で伝えている特に大人数の多くの発話を伴う授業「のみ」 を割り振り、唯一の「日本語科」所属教員に校内で唯一「日本語」の視点で行いうる授業「日本語演習」をあえて持たせず、日本語教員養成を経ていない「国語科」教員に割り振った不合理、異常さに通底している暴力的差別的なまなざしと構造に「法人」が一切「向き合わず、取り合わず、無視を貫く」ーまさに高校行政部専任と全く同じ形で、圧倒的な権力差に依拠した徹底的な「不対話」の結果の「排除」を「法人」に投げつけられたことである。これが最終的に筆者の絶望の復活固定と自死の決定的な理由になった。
今思うのは、「批判的思考」の無い、あるいは「批判的思考」を麻痺させるまでの、圧倒的な権力性を付与された、同質性の高い(まなざしの固定化した)特権集団には、「多様性」は理解も達成もしえないのだなということ。高校行政部専任とだけでなく、「法人」とも「対話」など、始まりもしなかった(広報とは真逆で、はじめから否定し回避し拒絶され、【見えないところで全て無かったことにして一件落着!】されたのだから)。
逆に言えば、そのような権威性や価値観の固定、組織の閉鎖排外性や膠着化を防ぐためにも「多様性」は重要であるし、意識して取り入れる必要があると言えるのだろう。その上で、「批判的思考」と複数の目(複合的な、特に組織の主流からは異質なものも含む視点)で権力構造からは自由公平に、フラットな形で問いと検証を加え「対話」を続けていくことで、組織の健全性は上がり、透明性も確保されるようになっていくだろう。
「高校」はさておき、少なくとも「法人」については、組織としては「大学」の「建学の精神理念」、それに基づき行われる広報、「大学」の教育環境と大きな差は無いはずだと、最後まで、思いたかったのだが、結局、「不対話」「無視」「排除」と、見事な「である」の世界しぐさで片付けられた。
筆者の「大学人権委員会、法人」宛ての申立は公開されている規程上の手続きから「逸らされ」、「大学」にすら見えないところ(法人上層部)へ追いやられ、「ブラックボックス」化された「監査」で、申立人にも「大学」の「先生」方にも誰かも知り得ない者(おそらく重役=権力者の集まり)による「閉鎖空間」での「閣議決定」で、一切の対話も検証も許されぬまま、【全て無かったことにされた】。公開されている手続きから逸らされ「裏」「匿名」で行われることは検証を不能にする(「人権委員会」については、規程を読めば、組織構成や判断者のルートが辿れる)。責任の所在も有耶無耶にした上で【全て無かったことにする】ためにトレーサビリティーを意図的に消滅させたということだろう。
おそらく、筆者の案件を【無かったことにした】方々についても、個々で接する機会があった場合にはまた違った印象を持つこともあったのだろう。「対等な」関係性(を「演出」しなければいけない場合)や「表向き」な場面においては、広報に近い状態である可能性が非常に高いのではと思う。
しかし結局は、「閉鎖された権力者の集まり」で「対外」ではない「内」の事象、しかも圧倒的に「劣位」な相手(にすらなりえない者)、「捨て駒で退職済みの非常勤講師」のことなど、同質の「お仲間」利権が全ての「村社会」、「である」の世界の権威力学内ではもとより扱う価値も無いことであり、聞く耳も返答も必要性が見出されなかったということだろう。それがいかに広報と乖離した状況であろうと。
結局「である」で終わるのである。「非常勤講師」そして「私」であったから、はじめから、どうにもならなかった(きちんと「法人」として「正面から」「合理的」な対応や説明がなされたのであれば、たとえ結果は変わらなかったとしても違ったのだろうと思う。広報や建学の理念と違うと思うところについては反論を述べたろうが、それは「対話」である)。
「私である」ことが問題なら私であることをやめることで解決をはかればよい。
これは「法人」が決定づけた帰結である。実に「合理的」であろう。組織の論理に合わせた意味では。
集団を「である」化させるのは「同質性の高い(多様性の無い/多様性を否定し異なる者を排除できてしまう」状態と、それを可能にする「圧倒的な権力ー特権独裁性」、一方それを緩和させるのが「批判的思考」による問い、検証、「対話」だ。そこに「バイリンガル」性(複数の言語文化を獲得した者による複合的な視点)が加わるとなお良い。
そしてだからこそ、「である」の集団は「多様性」を嫌い、「異なる視点」の排除に勤しみ「対話」を拒絶する傾向を強めるのだろう(「所与」「固定」の「自分達には」快適な環境が乱されるから)。結果、「同質性特権性」が肥大化し、一部の既得権益者とそのお仲間取り巻きにのみ優しい、そのための理不尽や暴力が正当化されまかり通る、極めて排他的で特に弱者を搾取し切り捨て踏みつけ続ける美しき世界ができあがる。おそろしいことに、当人達には全くその自覚がないままに。
なんという"Isolated Crazy Utopia"だろうか。
戦後に建学され、平和の象徴として植樹されたソメイヨシノの並木で腐食や倒木に近い枝落ち等が相次いでいるのは、法人組織の現状と重なるところがあるのかもしれない。外側だけきれいで問題などあるようには見えなくても、ふとしたきっかけである日、崩壊することになるのだ。きちんと中まで状況確認し、手を入れ続けていなければ、産寧坂の桜や上の写真の大木、"She"を歌っていた時に大枝を落とした木のように突然にね。
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そもそもこれを書き始めたのは、慶應大学塾長による、「国公立大学の学納金を150万円程度に値上げすべき」という中教審での提言を見て度肝を抜かれたからなんだけど、元所属や人権委員会のことともリンクしているからそちらを先に書き始めたら気持ち悪くなってきてしまった。
↓工事中で半端だけど続きは少し落ち着いてからにしようと思う。
とりあえず提言(https://www.mext.go.jp/content/2020327-koutou02-000034778-5.pdf)のスクリーンショットを置いておく。
続き
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文科省のサイトを見ると「国立学費150万」問題は中教審の会議を経た結果ではなく、慶應大学塾長伊藤公平氏個人の主張、ウェブ会議時に提出された資料(私見)であることがわかる。
これを「組織を背負った個人名」で出せるということについて、どうしてなんだろう、どう考えても慶應義塾大学にもご本人にもネガキャンにしかならないのに、政権や経団連にうまいこと乗せられ利用されてしまわれたのだろうか、、とはじめは思っていた。
でもそのうち、これも「多様性」なき「閉鎖環境」で「批判的思考」や利権の外、異なる背景や意見を抱える者の視点が遮断される中で起きたことで、おそらくご当人は純粋にそれが「正しい(これしかない)道」だと考えていらっしゃる可能性が高い、ようにも思えてきた。
慶應は「学長」でなく「塾長」なんだね。初めて知った。「大学」でなく「塾」の方だと思えば腑に落ちる面もありはするんだけど、議題は「塾」ではなく「大学」の教育、よりによって「国立」大学の学費値上げなんだよ。
「塾長」の経歴を確認したところ、伊藤忠商事の家系で幼稚舎から学部まで慶應→院はUCへ留学、帰国後の教歴も「慶應のみ」の「純粋培養」的「THE 慶應」という感じの方だった。提言の発想的に経済経営系の方かなと予想していたけど物理学者でいらっしゃるそう。ただ、量子とかコンピューター半導体とかも絡むようで、そうするとやっぱり商社や貿易の影もチラつく。
一般庶民の暮らしや状況に一切触れたこともなく、経済的な苦労や葛藤を一度も体験したこともなく、幼少期から博士課程まで恵まれた環境で似た境遇のご学友と存分に、何の制限拘束もなく学業に専念して楽しめた方を(私学ならまだしも)「国公立」の高等教育改革に介入させるとは。。
学術会議もそうだが、中教審もまた政府の意向が人選方針にもろに出る組織である。公助共助切り捨てで弱者は「自己責任」、強者お仲間にのみ優しい美しき国を作るために稀有な適材だと選任され、その思惑通り(+ご本人の意志も加わって)動いていらっしゃるということなのだろう。(ちなみに私のアドバイザーの先生もかつて中教審の委員でいらしたんだけど、普段は本当ににこにこ温厚な方なのに会議で怒りまくりストレスが溜まりまくりで冬のある日突然倒れ脳を痛めてしまった。体制の持っていきたい方向と逆だと本当にキツい。既定の方向へ持っていくために利用されやすい組織だから。こそ、しっかり注視しなければいけない。)
ほんの少しでも、下々の人々やその目に触れる機会があったのなら、この提言が大きな波紋を呼ぶことになることなんて分かりきったことだったはずなのに、150万なんて一晩の会食会で自分の懐を全く痛めず軽く計上できてしまうような「同質性の高い既得権益者」、政財界の中心に近い部分としか関わったことが無かったから(幼少期から一貫して)、たった150万ぽっちが捻出できないで進学を諦めざるを得ない家庭があるとか、進学のために借金やバイト(場合によっては性産業)漬けにならざるを得ない若者が多数存在し、卒業後にも長期に渡る返済で結婚出産も含め様々な制約を受けている現状など、想像もし得ないのだろう。
きっと150万なんて私の1万円くらいの感覚なんだと思うよ。そう思えば、それを国立の学費にと言われてもまあ納得できる。実際昔はそれに近い状況もあったわけだし。
公立小中に通う層の現状も、その先高校大学も公立に合格できなかったら進学自体を諦めざるを得ない子達の苦境も目に入ることすらなかった/見たくもない世界の人間の、利権の絡む集まり(政財界中心の教育施策検討者)からすれば、「国公立」なんて、初等中等教育段階ですら関心事は「国立附属」や「中高一貫」都立等の競争選抜を突破できる家庭出身の強者に行う教育位で、一般へ一定水準(最低限)の教育機会を(なるべく広く)国が保障するという本来の「公教育」の核の部分、特に弱者対策は、新自由主義の浸透と共にますます置き去りにされていっている。結果、貧困層が増えた公立義務教育は機能不全に陥っているし定時制高校もあっという間に消えていった。
「公教育」はエリート育成機関としてではなく、幅広く社会に教育機会を開き、将来を担う子どもたちのまずは基本的なリテラシーを確保するのが一義の、「公的な」未来のための地盤形成、投資なんだよ。本来まずは選抜無き義務教育(公立小中)の部分の拡充が優先で、次が準義務化している公立高校の特に低所得者層への確実な進学機会確保、高等教育については国公立大学へのやはり経済的にゆとりがない層へなるべく門戸を開くことが極めて重要。
+αの部分はあくまでその後。英才教育エリート養成ならいくらでも「私学」でもできるし、小学校段階から選抜を経て「国立」へ行くような層のだいたいは「私立」へも行ける(小学校から入試選抜を経て国立私立へ通うのは約1割だからかなり限られた層)。中高一貫都立だって、中学受験対策できるような、かつての公立中→高校は都立/私立上位校へ行くような、基本的には家庭の文化資本が潤沢な層が行くようなところだから、その全てが全てではないけれど、落ちて私立でも可能な場合も多いはず。
高校までの公立も(元々「公」的支援の必要が低い層向けに)一部を特権(エリート教育)化し、格差を拡大する方向ではなく、かつての日本の教育水準が世界的に高く評価されていた頃のように、まずは幅広い層がきちんと社会で暮らし働いていけるレベルの四則演算、リテラシーを身に付ける機会を確保して、労働生産性「維持」のためにも社会に必要な(急速に失われていきもはや絶滅寸前の)底堅い中流層を取り戻すことが重要。その上で経済的に恵まれなくても力がある子へは「給付型」の奨学金を充実させればいい。それこそ「伊藤忠」の奨学金みたいなものをね。
きちんとお金を出せばその分だけ、力がある子は個別にいくらでも引っかかってきて拾えるしその先の機会を作れるんだから、そういうわけにいかないところにこそ、「公的」に広く支援基盤を「学校」や「各地域の国公立大学」等で確保することが必要。
例えばアメリカだと私達が普通に暗算で行うようなちょっとした買い物の合計とか、その程度のものすら機械を使わないとできないっていう層が多いから、移住した場合に(日本だと特に算数が得意ってわけでもなかった)子どもが秀才扱いされることも多いんだけど(日本人だけでなくアジア人は数字に強くて勉強ができるというステレオタイプがあちらにはある)、こういう生活レベルのところすらままならない層が日本でも増えてきていて(発達障害とか境界知能とかの増加も絡んでいるとは思うけど)、本当に基礎から固め直さないと、上の写真の木みたいに派手な破綻を迎えることになる。今はTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)みたいなテストでスコアが取れない層が相当増えているはず。(かつてはTIMSSに対応できるような基礎的学力を持つ層が厚かったことが日本の教育の特色で、海外から高く評価されていた。2023年の結果はどう出るだろうね。今回は各国のロックダウンの影響とかも出るから「パンデミック初期の抑え込み」には比較的成功した日本はPISA同様高めに維持されるかもしれないけど、実情、特に低所得者層の学習状態はかなり厳しいはずで、コロナの影響を除いたら相当に落ちているのではないかと思う。)
おそらく「国立大学」についても「高等教育」についても「塾長」のイメージは「東京」から眺めた「(旧帝大等の)国立上位校」やそこにもアクセス可能な(自分の周りにいたような)「エリートへの教育【のみ】」なんだろうけど、それは「大学教育」「国公立」の中の【ほんの一部の上澄み】でしかない。
国立文系で150万であれば私立の方がむしろ安い位。これでは旧帝大等、全国から人が志願してくる難関/人気校以外の「その地域の国立」に行っていた層が都市部の私立に行くようになるから地方空洞化がますます加速するし、都市部であっても150万も出して私立より高い国立に行くくらいなら、かわりに入試の科目も少なくブランド価値の高い私立(つまり早慶など)へ行くほうがよほど「タイパ」「コスパ」がいいということになる(塾代だって家庭には大きな支出だ)。
この、ご自身の所属への利益誘導が意図的なのか無意識なのか、、何となく無意識な感じがするのもまた非常におそろしいところだと思う。特に「である」の世界の既得権益者はデフォルトの「全てが自分(達)」中心設定でナチュラルな独占排除を行う傾向があるからね(「所与」で「固定」の権威構造の中では「自分達だけが富や利を握り続けることが当然」なので)。
そして国立の学費が無事に値上げされた暁には、私立の学費の値上げ合戦も始まる(下のスライドにもあるけど、国立の学費と私立の学費は見事に連動している。「国立の学費を上げたい=自分の大学(私学)の学費をもっと上げたい」だから注意)。
しかもここでも「質の高い教育のために」等と表向きにはそれらしいことが掲げられながらも教員がテニュア無し/非常勤ばかりの使い捨て状態なのは変わらないか加速するんだろう。
結局は一部の既得権益者(自分とお仲間)の利益を確保拡大するためだけにそれ以外を犠牲にする典型的な新自由主義者の発想、強者の目で、全く(他)人、特に弱者目を向けることなしに自分達に有利な事業「効率」という意味での「合理」化が成し遂げられるわけだ。
しかし教育を経営や事業の視点でしか考えないのは本当に本質からずれていて、それが人や未来や可能性への投資だ、主役はあくまでStudentsだという視点が完全に抜け落ちている。「逃げ切り」世代は自分が生きる間の利確だけが重大事だから、中長期の展望無く目先(自分とお仲間)の利益だけに固執し、未来の成長の養分や素地まで吸い付くし破壊しても何とも思わないのだろうけど。
進学率が低かった昔とは違って、高等教育がユニバーサル化した今は、大学進学/卒業だけでは他と差がつかず、機会損失の防波堤(ポジティブな影響というよりネガティブな影響の緩和)程度にしかならない。それでも借金をしてバイト漬けになってでも必死に通う層がいる(多い)のに、さらによりによって国立授業料を上げるなんて、そんなことしたら国内から既にほぼ消えた中流層を根絶させるよ。。
「国公立」も「高等教育」も「特権的なエリート教育」として一部の既得権益者+都市部に住む経済強者にしか恩恵を受けられないようにしてはダメ(勿論「独占」が当然の既得権益者達はそうしたいのだろうけど)。自分の時代、自分の周囲とは決定的に異なる現状をまずは認識する必要がある。
今の日本はもう中流層がほぼ消えて貧困も底が抜けているんだよ。既得権益者とお仲間の世界からは遠すぎて見えないのか、あえて見ないようにしているのかもわからないけれど、一部の選ばれし者が大量の下僕を転がして、と、思ったところで既に深刻な労働者不足なんでしょ。どうして諸々最低限のところすら維持できなくなってきているのかをとっくに直視すべき時期なんだよ。本当に(「私利私欲」でなく)国の、特にこの先のことを考えているのであれば。
もはや完全に落ち目&通貨安で人権意識まで低い、英語も通じない日本になんか、この先は海外から単純労働者すら入ってこなくなるよ。ニッポンスゴイの方々の「歪んだ認知」とは違って他にいくらでも、もっと稼げてマシな国があるんだから。
国内に今いる人々を大切にして、多少手をかけ負担を負ってでもenpowerしていかなけば、急激に進行している沈没の速度を弱めることすらできない。この先は日本人がまた「移民する側」になっていくだろうし。特に「高度人材」と「若い力」からね、それはもう、ボロボロ抜けていく。
目の前にいくらでも人はいるのに、それを「人として見ていない」から、人手不足になる。氷河期もそうだし、体制が勝手に「自己責任」で切り捨て可能性を潰してしまった多くのものの中に、見過ごされた原石があまりにもたくさんあったんだよ。
まあ、国もお友達も既に日本人の大半(貧民)を見限っていて、それ前提で施策を組んでる感があるんだけど、高等教育を強者に独占させエリート教育化したところで、そこで育成されたエリートはエリートだからこそ環境を選べるわけでbetter placeへ流出していくんだから、それよりも多くの人がきちんと国内で働き堅実に生活できるように裾野を広く機会を保障していくほうが遥かに生産的だと、私は思う。
ちなみに私の出身高校は学区首位の都立だったけれども、私の2、3年クラスのうち約半数はおそらく母子家庭だった(当時は電話連絡網用の在校生名簿があったんだけどその保護者名が女性名になっているのが半分くらいで私は非常に驚いた。他のクラスのものまで見て記憶していないけど、おそらく比率が高いクラスだったのではという気はした、雰囲気的にも)。そして直接的な関係は不明であるものの、おそらく担任(この教師は「大学に行きたくない」を繰り返す私に対して「俺の立場を考えてくれ」と言ってきた。私は当然その後「大学へ行きたくない」すら口に出すことをやめた。)の性質とも相まって、私のクラスは現役時代の進学実績がものすごいことになっていて、確か推薦で私立入学が決まった2名以外はほぼ浪人だったはず。元々国立早慶志望が大半で浪人率半分位の学校ではあったんだけど、それにしても凄まじすぎると思ったものだ(翌年は東大も出たけど)。
隣の先生のクラスは現役時代から着実に成果を出している人が多い印象で、現役東大合格もいた。先生はその子の相談もよく聞いていたようだったし、大人になって再会した後、実は私のクラス内で虐めがあったということを伺った(先生はおそらくその虐められていた子とも話していた、すごすぎる)。
虐めには私は気付いていなかった。いつも一人で離れて黙っている子がいるなとは思っていた。私も(クラスではだいたい友達と過ごしていたけど)一人が苦痛ではないタイプだしいつも友達と一緒にいなければいけないという価値観でもないので、まあそういうもんだとして見ていたんだけど、その子はクラス内のパリピ女子集団(?)に虐められていたとのことだった(そして思えばその子は2年の途中から一年弱アメリカかどこかへ留学へ行っていた。「外なら違うかもしれない」って思ったのかもしれないね。話してみればよかった。しかし時は戻らない)。
偏差値的には高いところにある、ある程度の結果も出せる力を出せる者の集まりだったとしても、特に「幼稚舎から慶應」みたいな世界と「公立」の世界は全然違う。私も大学時代は半分くらいが中高一貫とか小学校から私立の友達だったけど、やっぱり学校生活とかそもそもの暮らしのあり方が違うなあとよく思ったものだった。英語のクラスメイトには海外生まれ暮らし留学経験者も相当数いたし、ずっと国内でも小学校でPhonicsとかね(※私の時代は今と違って英語は中学から)。公立だとこれらはまず一般ではない。
大学はちょっと変わったところだったから、わざわざそこに集まってくる層もちょっと変わっていて(ネームバリューを求めるなら国立早慶へ行ったほうがいいんだけど、英語クラスメイトには東大を蹴ってきた変わり者もいるし(東大の入学手続きをしなかったらどうしたのかって問い合わせがあったらしい、普通、まずそんなことはないもんね。。)その他にも一般的にはそっち行っとくでしょ、みたいなところをあえて外して来ている子が複数いた)、やっぱり「である」ではなく「する」の価値観が非常に強い子(家や親からして)が多かったのも私には快適だったところかと思う。
地主の家の者ですが何か?みたいな感じは本当に少なくて、たとえ土地持ちだったとしても何か、親からして「する」の要素があって、たいてい「海外」や(大学入試や偏差値から自由な次元の)「学問」との接点がある。そして富や幸せは「独占」ではなく簡単に手放してしまうしそうして「共有」していくことが喜びだったりする雰囲気がある。
私はそれまで非常に強い「である」の価値世界の中にいたので(「である」民はとにかく「内」で「独占」したがるんだよ)、はじめは驚いたし戸惑ったけど、そのうち手放せることは自由なんだって気づいた。そして自分が手放したはずのものは巡りに巡って形を変えて自分に還ってくる、ということにも。そういう意味でも利他やお互い様は、実は自分のためにもなる(マスク着用も一緒。他人を守ると自分も守られる。しかしこのことは新自由主義者や「である」の世界の既得権益者にも、教育機会が充分に行き届かなかった層にも伝わらない。いずれも「自分(達)の利が全て」だから)。
「大学」の先生方も、固定観念や年齢身分立場の差からも自由で、対等な人として、私の「である」ではなく「する」の側面を見て(元所属の教員とは異なり、ただ言葉遣いや距離感が近いというだけではなく、権威構造や差別的まなざしから自由で本質的に)フラットに接してくださり、惜しげもなく知見や教養をシェアしてくださったし、大切に、尊重していただいた、【「違い」も含めて】。そのお一人お一人のお姿の中に私は自然な"noblesse obliges"を見た。そして人を育むとはこういうことなのかと思った。とても優しい環境だった。
話を戻すと、高校までの環境が大きく違っても同じ大学に集う者達がいる。これは「慶應」だって「東大」だって同じことで(先述のパリピに虐められていた子は慶応へ行ったらしい)、これは進学実績という意味では達成度は同じでもそこまでにかかった教育コストが大きく異なること、特に公立高→難関大学へ入る層は(私の高校は学芸大付属や近隣の私立中から入学してきた子も一定数いたけど)大半が小中高と公立で過ごしていることからも「公立」初等中等教育の保障と経済的にあまり余裕が無い層への高等教育へのアクセス拡充の重要性を示している。
力のある層は義務教育段階からエリート教育をしなくてもきちんと結果を出せるんだよ。勿論、義務教育段階で公立でもより整った環境があるのは好ましいことではあるけど、それは「大半」の層の環境がきちんと整えられた先に検討されるべき。
たとえ周りが自分よりできないとか授業の進行が遅いとかがあったとしても、日常に明らかに余力や余白ができるんだから、そこをどう使うか、自分で工夫すればいいんだよ。そういった想像/創造力とか自己管理だって、広範的な学力の一部であるわけだし、学校や教師に頼らず自発的自律的に学べる層は強い。そしてこういうところをきちんと吸収できる「給付型の奨学金」を拡充すれば、義務教育段階から学校ごとエリート校化させなくても、伸びる子はしっかり伸びるし、そこをきちんと支えられる。
(当時は中高一貫都立がまだ無かったから)私は全く選抜無しの、そのエリアの玉石混淆な公立へ通った(し、移住で暮らしや心境が全く変わった中学以降は基本的に不必要に人と関わることは避けてきたから実際に話したり接したりということは無かった)けど、そこで学力から経済状況や文化から、本当に色々な人々を見てきたのは非常に価値があったことだと思っている。
たとえ大学までずっと、恵まれた似た者同士でずっと安全快適に過ごしていたとしても、社会に出れば見事に様々な人がいて、そういう様々な人が様々なところで社会を支えているわけだし、本当に身の回りの全てを秘書やメイドさんじいやばあやみたいな人あるいは専業主婦が付きっきりでしてくれるような特権階級中の特権階級みたいな人以外は、否が応でも、仕事でも生活でも「自分とは違う」多数の雑多な人と接していかなければいけないんだよ。
そして「国」のことを考えるなら、既得権益者の世界の中の「歪んだ認知」とは異なり、人数構成的には圧倒的に、「特権の外にいる人達のほうが多い」んだから、そこをきちんと支える基盤を整備しなければいけない。
例えば私は公立中でも地域的に安定した環境のところだったから特に問題は無かったけれども、これが虐めや盗難暴行や器物破損授業崩壊が当たり前の環境だったらさすがにきつかっただろうと思う。し、その一方で中学の友達には「都立に受からなかったら高校浪人しなければならなくなる、どうしよう」と悩んでいる子もいた。
都立上位校から学力的には難関大へ入ることが可能な層にも、学費が国立150万、私立がそれに合わせてさらに値上げとなったら進学自体を諦めざるを得なくなる者が一定数出る(なにせ、私のクラスの約半数が片親だったことからしても、入試偏差値によらず公立へ通う層の少なくない割合に機能不全家庭が含まれる可能性が高い。興味深いことに大学の友人の家はほぼ両親揃っていて関係も良好な場合が多かった)。遺伝研の川上浩一先生も、国立の学費が高かったら進学自体が困難だったろうとおっしゃっていた。
「既得権益者の既得権益者による既得権益者のための」高等教育改革を強行すると、これまで包摂できていた「力はあるけど経済的には恵まれない」層、ひいては「高度人材」や「国力」をみすみす取りこぼすことになる。なんと愚かで勿体無いことだろうか。
前にも書いたことがあるけど、私の高校時代の先生(今70↑くらいかな)は、いわゆるお二号、お妾さんの子どもだったけれども、そのお母様が大企業の「正規の掃除員」として女手一つで(弟さんも含め)生活を支え、小学校から「国立附属」へ通い、「国立大学」(そういえば東大の入試が無くなった年だったとおっしゃっていたな)を出て公立(都立)高の教員になった。
ちょっと口が悪いけど非常に聡明で鋭い人で、私の家の状態、虐待を素早く見抜き指摘し、その後図書館や大学へ繋げてくださったし、私以外の生徒にも、担当クラスを問わず非常に慕われ頼りにされていた(現役で東大へ入った子の家の話も色々聞いていたようだし、同じクラスの私が虐めに気付きもしなかった、誰とも話さないと私が思っていた子とも話をしていた。一方で、生徒より「俺の立場」が大切なクラス担任は、知らないか黙認放置していたかだろう)。
こういう方も、女性にも、いわゆるホワイトカラーでなくても、安定的な身分と収入が得られる仕事が(お母様に)確保され、かつ、「公立」で学費を抑えて充分な教育を得られる時代があったから(先生の場合は小学校から「国立」だったけど)、きちんと力を伸ばし職を得て、多くの生徒にその恩恵を還元する機会、次世代への恩恵の循環が与えられたわけで、はじめから特権の内にいる強者だけにしか、安定した雇用も良質な教育も与えられない世界だったら、全ての可能性は飛んでいたことになるんだよ。先生も、私も、東大の子も、慶應の子も、その他多くの先生が接し支えた子達も。
学芸大の江原遥先生も、中高一貫のミッションスクールご出身の経済的には強者家庭の内にいらしたようだけれども、おそらく高額医療制度の当事者で、「弱者」の視点をふまえて、コロナのことも、国立授業料のことも発信していらっしゃる(川上先生も、コロナ対策もその他も、「弱者」に寄り添った発言をいつもなさっている)。
似た者同士の強者だけが連なり、自分達の中の共通認識、「お気持ちとご都合」だけで権力のまま恣意的に強行するものは、感染対策にしても教育政策にしても、上辺だけはきれいな言葉で彩られたその内実、合理性も公平公正さも欠く、上に弱者を平気で食い潰す、圧倒的な理不尽暴力だ。むしろ弱者を効率よく排除することこそが本目的なのかもしれないけれども。ゆくゆくはそれが自分達に還ってくることだというのを一顧だにすることなくね。
人は死ぬしいなくなる。それが現実というもの。お花畑の世界の夢物語ではない。
先述の通り、進学率が五割を超え高等教育がユニバーサル化しているからこそ、現代の大半の若者にとって大学進学はポジティブな意義付けと共に自発選択的に行われるものではなく、機会損失というデメリットを被らないため程度の消極的理由で「普通のこと」として行わなければいけないものとして位置づいている。そんなところに「志」「能力」「生涯に渡り学び続ける力」のような崇高なスローガンを掲げたところで相手や実情との乖離も甚だしい。
これらは「塾長」がイメージしている大学生=高等教育を受ける者の中でごく限られた上位校の上層部、あるいは進学率が低く「高等遊民」等と呼ばれるような生活が送れる特権階層しか大学にいなかった時代にはマッチする/しただろうが、現代の大半の大学生は、特別な「志」や「能力」が無くても大学へ行かざるをえないから、(志や能力が高い者であれば得やすい)特待生や給付奨学金、学費免除が得られなかったとしても、奨学金という名のローンで利子免除すら得られなくても、「多額の借金」をしてまでも、とりあえず大学へ籍を置き、入学後に(学費生活のため)バイト漬けになって学ぶ時間が無いなどという本末転倒な状態になったとしても、卒業資格を得てやっと一般と同じ土俵に上がれる就職のために、何とか大学にいるのである。そして繰り返しになるが、卒業資格があったとしても、かつての進学率が低かった時代とは異なり、それがメリットとして働くことは無い。あくまでデメリットを減らす程度のものにしかならない。それでも、なんとか大学へ行き、卒業しなければいけないのだ。
今の大半の若者/大学生の状態は、大昔に政策立案者達が大学生だった時、あるいは政策立案者達の周囲にいた/いる似た者同士(特権階級)、現代でも「慶應」に通っている層とは根本的に異なる。「現在及びこの先の高等教育」を考えるのであれば、特に今の一般の若者にとっての現状、進学や大学の位置付けや彼/彼女らやその家庭の経済事情に目を向けなければならない。
それなのに、実情を踏まえず、よりによって社会の中のほんの一部の特権層(政財界とそのお友達)が自らの頭の中にある(大半の民衆とは異なる)「当たり前」だけで判断し、それを特に「異なる目」を持つ者を含む多様性を排した似た者同士だけの「閉鎖環境」で「批判的思考」無しに決定し強行しようとしているのは非常に危うい。
貧困が加速する日本で国立150万、私立がさらにそれ以上となり学費を捻出できる家庭がどれだけあることか。そしてその150万の基準が現行の慶應の学費(私立の中でも高額)であることと、自らの立ち位置をもとに設定した【国立学費についてのみ】、値上げと額を明言している一方、「学生それぞれの事情に応じた経済的負担軽減のための奨学金および貸与制度」については一切詳細が無い点にも注意が必要である(学費値上げは強行されても【奨学金拡充は無かったことにされ】支払い能力の無い貧民は自己責任!自助!とされる可能性が非常に高い。)。
富も利も自分やお仲間で「独占」するのが当然の既得権益者の思考からすれば、おそらく大学大卒が増えすぎて差別化がはかれない&自らの特権性が揺らいでいる(本来自分には不要であるはずの「所与で固定の利権」のために競争が必要になってウザい)から、まずは国立+5年ディプロマ制採用の公立私立/その他大学で入試偏差値に加えた序列化(主に私大内の淘汰)をしたいのだろう。そして修士持ちを就職スクリーニングの標準に押し上げ学士の価値を半減化させ、学費増額&支払い1年の延長で多くの脱落者を生み高等教育へのアクセスを制限し再特権化させることが目的でもある気がする。(ここで修士までアクセスできない貧民弱者は全て「自己責任」で切り捨てることで解決!ね。これが強者の論理。)
5年制ディプロマコースについては、もはや(150万×5年の学費すら出せない)国内の子どもや家を見限り「安く短期間で修士までとれる」と海外から留学生を集めて人口や人材を埋めようとしているのではという気もしている。「経営努力」や競争力向上の一環で英語開講とかも増やしていく形にしてね。ここでも対応できないところは淘汰されて、元々競争不問で生き残る財力や基盤のある大学だけが得をする形となる。
こんなの、「国立大の学費がダンピング」のご主張のそのままそっくり裏返しで、競争も公正さも皆無の出来レースによる利確をご自身の所属のために作ろうとしているだけじゃない?
「公平」って何なんだろうね。「である」の世界の主張する「公平な競争」って、そのスタートラインにすら立てない脱落者を多数輩出する、表現とは真逆の「出来レース」で結局は「所与の利権の固定強化」なんだよ。
日本における新自由主義は「である」の価値観と悪魔合体した結果、正当な能力反映や競争すら起こらない、生まれやコネやラベルで予め決まっている勝者がただ息をしているだけで延々と勝ち続ける/「特権層とそのお仲間」以外からは富が流出し吸い尽くされる構造を強固に根付かせてしまった。格差貧困は固定拡大化する一方だ。そしてにっちもさっちもいかなくなっている低所得者層の教育機会を得られなかった若者達は明らかに鴨にされるのがわかりきっている闇バイトに自ら志願し短絡的な犯罪に手を染めていく。その日その時のお金、欲求が全て。その先何が起きるか、今の状態や選択が中長期でどう影響してくるかなんて、考える余裕が無い(こういう層には「他人に感染を広げないためのマスク」「社会の感染蔓延を抑止することで自分の感染を防ぐ」意味なんて到底理解されることはない)。
円安物価高も低所得者層をこそ直撃する。備蓄消費中心で普段はデパートで嗜好品や時折の生鮮品を買うくらいの筆者は昨年まで実感する機会があまり無かったのだが、ごくたまにスーパーへ決まったものを買いに行く際にチラ見偵察すると、特に安価で割引販売されていたような加工品類の値上げが著しく驚愕した。おそらく元々ある程度の価格帯で割引販売しないものよりも、割引前提で流通している大量生産品のほうが変動が大きく、一般の家計を逼迫させているのではと思う。(筆者がデパートで購入する菓子類も昨年末や特に今年に入ってから値上げされるものが相次いだ。最近だと、とらやの小型羊羹や高野のフルーツチョコが上がった。)
一方、インバウンド観光と同じで、特権層にとっては「円安はチャンス!」だから「安く学位がとれる」と人を入れ、国内のリソースを「海外の高度人材」を育てることに開き、海外からの財力のあるお客様に「安く消費」していただくことになるんじゃないかな。
労働力としても、既得権益者は大半の日本人(貧民)を見限り、海外に期待しているのだろうけど、残念ながら「海外の高度人材」は5年制を「安く消費」した後は、much betterな環境へ飛び立っていく。ただ「安く留学し学位を取る」ために「数年限定で」滞在する意味はあっても、通貨の価値は低くかつての経済力や安定も治安の良さも崩壊した言語的にも困難度が高い日本で特に「高度人材」が労働し定住するメリットは無い。結果、インバウンドとまったく同じように一時「安く消費していただく」だけになる。
お金のある海外の人々の「消費」頼みって、完全に自分達の手による成長や回復を諦め放棄した、国内のどこにも活路を見出せない「貧しい国」の在り方だよね。
目の前の国内の人々の存在や可能性をを無視して切り捨て、経済的に豊かな海外の人に「安く消費していただく」ことを繰り返して、その日その日をしのいでも後には何も残らない。目先の利益に飛びつきそれなりに収益が上げられているように思えても内側がスカスカのボロボロになっていてある時ふとしたきっかけでポッキリ折れる。しかしそれを修復する力はもう社会のどこにも残っていない。そんなことにならなけれないいけどね。どうなることでしょう。
院生や資格持ちのみを量産したところで意味は無い。既得権益者は自分は何もせずただ待ち構えているだけで自動的に富や利を得て、他人にだけ「自己責任」「自助」させるわけだが、「先進国とは異なり」、国内では特に文系の院進や修士号が正当な評価や待遇に反映されることが少ない(就職時の年齢が上がることで不利になることすらある)のだから、その状態で無理矢理M持ちを増やすことより、先にすべきは受け入れ側(企業等)の意識や条件の整備改善である。
大学院教育と労働生産性に「正」の相関がみられるというのも、ただ「大学院へ行った」「修士号を持っている」という「である」の状態で決まることではなく、そこに至るまでに何を「して」きたか、そしてそこまでの積み重ねや達成を可能にする基盤をどれだけ持っていたか/得られたかが重要な要素であり、一般的には家庭の経済力や文化資本との相関が非常に大きい部分である。
↑は津田塾大学の網谷先生が掲載していらしたJASSOのローンと学生の在籍大学をまとめたもの。学業達成度は家庭の資本力に制約を受けやすい。概ね入試偏差値が高い大学は貸与学生数が低い(私が在籍した大学も学費は高めだが先述の通り安定した家庭の出身者が多く一割を切っている)。
日本は給付奨学金や特待生学費免除等のシステムが非常に弱く、中堅以下の大学ではローン漬けになる学生が在籍者の4分の1にものぼる。
繰り返しになるが、特に難関大学を卒業した者や高所得者層の当たり前の世界は世間一般の当たり前とは必ずしも一致しない。人数構成比的には特権的に「所与」で諸々のメリットを享受できその結果難関大学へローン無しで通える層よりそれ以外の者の比率の方が圧倒的に高いのだ。
そんなところで学費を上げれば、対応できるのは高所得者層だけ、それ以外へは実質の締め出しとなり、結果、正当な能力による競争選抜を回避し経済力だけで高所得者層がだけが高等教育へのアクセスとそのメリットを享受できるようにもなる。
つまり、国立大学値上げを端に発する私学含む高等教育全体費の値上げは、高所得者層への利益誘導策であり、それ以外の者を高等教育から排除し、当然大学院進学の可能性も阻み、大学院修了者比率と相関があるとされている労働生産性を下げることになる。
労働生産性のために大学院進学者を増やすことを目的にするのであれば、行うべきは貧困や機能不全家庭への対策に加え、「国立大学」の学費は「下げる」、そして力のある若者により広く、院進含む高等教育へのアクセスを開くこと、そのために給付型の奨学金を充実させることである。学費値上げなど完全に逆行である。
就活や就活終了で学びの意欲を失う(学問ではなく就職のために大学へ行く)ような学生に5年ディプロマ、大学院教育も修士資格も合わない。「である」の世界では「ラベル」が関心事なのだろうが、学歴学校歴学位と業務上の適性やパフォーマンスは必ずしも一致しない。業務に必要なのは何ができるか、そのために何をしてきたかであり、就職のために仕方なく5年大学に在学することになっただけの学生を形だけ「院生」や「修士持ち」にしても意味は無い。
この提言は「大学を就職予備校としか認識しない【政財界のニーズ】に合わせた、生まれながらに全てお膳立てされ何の制約もなく学業に専念できた【特権階層】出身の【理系】研究者による、ナチュラルな【文系蔑視】のまなざしを含んだ、人文系学問の意義や実情、国内の大半の若者の現実を全くふまえていない絵空事」でしかない。
権威者の思うままに「0も1に」「1も0に」なる、命じれば全てが達成されるミラクルワールド、「である」の世界の発想とは異なり、ディプロマコースを導入したところでそれだけで大半の学生が学ぶようになることはない。
5年制は筆者が在籍していた大学で既に存在している。ただ、制度はあっても利用する/できる学生は限られている。自発的に利用する層には合うが意志なき者には厳しいからだ。元々院進を想定していた学び研究するために大学へ通う層へならともかく、就職のために(学びを主目的とせず)非積極的に、あるいはバイトに多くの時間を拘束され最低限の単位を取得して卒業していく層にまで無理矢理5年制を標準化しても、ただ就活が一年後ろ倒しになるだけである。
「である」の民の発想とは異なり、就活が3年で始まるから学びへの意欲が下がるのではなく、高等教育がユニバーサルしている現代は学ぶことを目的に進学してくる/学ぶことに専念できる層「以外」の「就職機会を制限されないために学業はさておきとりあえず大学に入らなければならなかった」学生の比率が、特に難関上位校「以外になればなるほど」高いから、「就職」という進学の目的が達成された後は勉学通学意欲を失うし、そもそも学習へも卒論へも費やす時間も意欲も低いのである。
繰り返しになるが、この状況に対して「5年制」を文系すべての大学で「標準化」させることは全く解決にはならず、学費値上げ+支払い期間の1年延長で経済面から、加えて学生の資質や動機の低さから、落伍者を量産することになるだけである。
「5年制」は自発的に選択したい者が使えるように、ニーズが高いところから徐々に整備をしていくことに価値はあるが、「全ての大学」で「全ての学生」の「標準」にするというのは無理がある(能力も財力も意欲も揃っている学生、元々院進するつもりだった学生以外=大半の学生には負担増や実質的な「排除」策となる)。
ただ、一方で学費を1年分減らせるというメリットは極めて大きいので地方の(難関校以外の)国公立から導入するならば、諸々の機会格差の是正という意味でもよいのではないかとは思う(それを理由に地方へ進学する若者が出るかもしれない)。
重要なのは、意志のある者に機会を開くことと無理矢理全体全員を巻き込まないことだ。高等教育がユニバーサル化した今、大学へ通っているの学生の「大半」は「学者や専門職を目指す学生ではない」。
スライドを読み始めた時、クラクラしてきて、どこを見て何を目指しているのか意味不明で、提案とそれがもたらすことも並べ立てられている理念的な言葉と一致しない(むしろ真逆だ)し、いったい何を考えているんだろうとしばらく思っていたんだけど、「政財界」のご都合とお金の心配をせず存分に学べた「圧倒的に恵まれた研究者」の経験を反映した「強者の強者による強者のための(既得権益者への特権集中/弱者排除の)」策なんだって気付いたらすとんと腑に落ちた。
「高度人材育成」(就職予備校としての政財界からのニーズ)と国際卓越や特色ある「研究」(大学本来の目的)が併記されていて、全然ベクトルの違うものを無理矢理一緒くたにしているからこんがらがっているし、雇う側や「私学」運営の利益利便性から既得権益者の「当たり前」や「お気持ち」だけで案を出しているから、大半の若者と特に弱者の実情、「国立」の意義と乖離していく。
やはり、多様性ー批判的思考による特に異なる目を含んだ検証は重要だ。
学納金体系、国立学費の値上げに関連して「公平な競争」が二度繰り返されているが、ここでの「公平」が高等教育を受ける「学生」の立場でも、「国公立」大学所属教員の立場でもなく、「私学運営者」の立場から発せられていることに注意しなければならない。ここで述べられている高等教育改革は「学生」のためではなく「一私立大学の事業運営利益」を伸ばすために提案されているのだ。
「国立・公立・私立大学の協調と競争を促す」とあるが、国立の学費150万円化で得をするのは、国公立の値上げにより相対的に割安になる「私立」、中でも「国立」のネームバリューの代替になりえるブランド価値の高い最難関私立ーつまり提案者のご所属であり、提言はご所属への利益誘導であると言える。もはや競争以前の利確状態である。
加えて、国立値上げが達成されれば、それを理由にご所属の学費をさらに上げることだって可能となる。
ここでも「慶應」であれば、値上げは幼稚舎からエスカレーターの生え抜き慶大生になるような(ご本人やその周辺のような)層にはびくともしないことである一方、例えばそれまで「高校まで公立でも大学は」と、それこそ正当に能力で「競争」を突破し経済的な負担に耐えつつ入学してきていたような層にこそ打撃を与えることになり、その脱落により経済強者が(能力ではなく経済力で)入学しやすくなるという、やはり同質のお友達には優しく、異質な特に経済弱者を排除する構造を作り上げることになる。
さらに私立大学間の競争でも、学費の問題に加え、5年制を標準化するとなるとそれに対応できる下地が(財政的にも人員的にも学生層的にも)充分でないところがボロボロ脱落していくだろう。
つまり、「公平な競争」という大義名分のもと、実質は「不公平な不戦勝/出来レース」という表向きのアピールとは真逆のことが行われるのである。「である」の世界の主張する「競争」は「不競争」であり、それは「自己責任」でスタートラインに立つことすら許されない多数の落伍者を作り出すことで「所与の特権の固定化」をはかる理不尽で、現状の国立学費以上に「ダンピング状態」なのである。
アメリカの大学の学費は高すぎる。ので、あちらでは奨学金を得て大学へ通うことが一般的で、それなりに制度ができあがっているが、日本には特に給付型の奨学金制度が少ない。
また、ここではおそらくアメリカでは学費が上昇し続けているということをおっしゃりたいのだろうが、アメリカは日本とは異なり、物価や特に所得も同じように上がってきている。
失われた30年ーひたすら無成長でエンゲル係数ばかりが上がり続けている日本で、所得が増えない中、学費を上げたら、修士はおろか一部の経済強者以外、大半の家庭の大学(学部)への進学機会を奪うか制限することになる。これは「大学院教育と労働生産性に「正」の相関があるので5年制を導入すべし」という提言と反発する。
慶應の学費は筆者の頃は私立文系の標準よりやや高い(安くはないけど、ものすごく高くもない)位だったと思う。筆者が在籍した大学は私立文系の中ではかなり高額だとされていて、当時より10万円くらい値上げしたはずだけれども今は慶應のほうが高い。つまり、現在、慶應は私立文系の中では最も(もしくはそれ相当に)学費が高い状態となっていて、それでももっと学費を上げたい、そのためには、、という思考の流れからの国立値上げ案である可能性を充分に考慮し、妥当性を多角的に検証しなければいけない。
公的教育支出とは「公」がStudentsに向ける支援の額であって、若者や家庭に支出させる額ではないのでは?
学費を上げても公的教育支出は増えないから、GDPも平均年収も労働生産性も関係ないよね??もしや国立の学費を上げ、経済弱者の高等教育へのアクセスを遮断すれば、受益者が減るから一人当たりの額が上がってヨシ!っていう考え方???
だとしたらあまりに差別的なのでは、、でも「である」の既得権益者は平気でこういう考え方をするからな、、おそろしい。
「高度な大学教育を実施するためには、学生 一人当たりの収入として300万円/年は必要」であり、「学生一人当たり公的教育支出と一人当たりのGDP、平均年収、労働生産性には正の相関関係がある」から「学生一人当たり公的教育支出を増やすべき」なのであれば、すべきことはそもそもの「公的教育支出」予算を増額することなんだよ、日本の公的教育支出はOECDの中でも最下層なんだから。
もうとっくに先進国だなんて言うにも憚られるみるに堪えない状態なのに海外にだけ無条件に気前よくばら撒かれる額のほんの一部でも、国内の人、特に若者のため、教育費に当てたなら、給付奨学金の財源だってできるし大学への交付金だって増やせるのにね。あとはポンコツ武器。剣をペンに変えて未来に投資したらよっぽど生産的だと思うけど。
弱者からも容赦なく毟り取る、あるいは弱者を土俵上から排除するのではなく、きちんと社会を維持できるように人を大切にして育もうよ。
「塾長」は学術の世界と政財界を繋ぐこともできる方であるはずだから、きちんと「学生」や「大学」の実情を見て、「学費を上げる」ではなく(政財界を説得して)「公的教育支出」予算を増額する方向でそのポテンシャルをフルに活かしてほしい。
「伊藤忠」の奨学金、すごくいいんだよ。ただパイが少ない。でもだからこそちゃんと優秀な人が給付を受けている(院生の時のTA仲間が受給していた。めちゃくちゃできる人だった)。見る目もあるってことだよね。でも日本は本当にメセナが少ない。
特権層はきちんと"noblesse obliges"して、自分が受けた恩恵を分け与えて回して、そういう優しい連鎖が続く社会であればいいのにね。それこそ明治以降、あるいは戦後を作り導こうとしてきた「志高いリーダー達」のように、「国や未来のために」。「私」を全く捨て去る必要なんか全く無いけど、「抱え込み/排除」ばかりでなくさ。
そのために必要なのは「多様性」、「批判的思考」、異なる目による検証、「対話」。
似た者同士だけの凝り固まった思考や世界で特に権威構造が絡むと特権の抱え込みや利権の外にいる者への切り捨て(しかも「自己責任」にした上での)が起きる。明らかにおかしなことにも誰も気付かない、あるいは気付いても利権のためのイエスマンばかりで表出されない(反逆者は攻撃排除されるし)、そうしてどんどんずれて、さらに煮詰まっていく。
もう無くなってしまったけれども、かつてはSanctuaryがあったから、暗黒底なし沼の絶望を抱えていても私は何とか自分にできること=存在する意味を探して、あの手この手で自分をなだめすかしながら生を繋いでいた。
教養を身につけて、論理や理性でもって、権威差や差別や理不尽や暴力から自由になれる世界、「対話」や「批判的思考」で人や事象と向き合い可能性を模索すること、そういう「公平」で健全で安全な学問の場が、多くの人に開かれればいいなと思う。
今突然気付いたけど、「リベアルアーツ」で分野を横断しつ様々な学問の視点に触れるというのも、複合的な視点や「批判的思考」の獲得、ひいては「多様性」の維持には良い点だったのかもしれない。こうして考えると、これまで漠然と受け止めていた大学の建学の理念の要素、カリキュラム、全ての連関は必然だったんだよな。よくできているよ。
あと、これも今までずっと不思議だったんだけど、これまでの「学長」に一人も「卒業生」がいなかったことについても。外からの目、異なる目も含めて「検証」と「対話」を続けていけるからなのかもしれない。
面白いね。こんなことになったから色々気付くなんて。
そしてまたついでに(?)突然思い出したんだけど(野鳥の鳥頭(忘却)や記憶、記憶復活のメカニズムは本当に謎である)、タイミングは不明ながら私、(高校の)先生と「伊藤忠」の奨学金について話をしたことがある。応募しようとしたのかな。でも特に大学進学前の状況だと勉強全放棄の結果、音楽と現代文と英語以外の成績が無かったし課外活動も何もしていなかったから諦めたのかもしれない。
私は大学内の学費免除のみ、二年次以降、活用させてもらった。入学時は高校の成績が悪かったので応募しなかったはず(同じ理由で入学直後の各種給付奨学金募集にも応募できなかった。そして二年次以降も募集している給付型奨学金は探したんだけど無かったはず。高校と大学で成績変わる人だっているのにね)。入学後は日々の学びが楽しくGPAも高かったので修士までずっと免除を受けることができた。
ちなみに私は大学入試に際して塾予備校の類は一切使っていない。受験料も含め全て自分で賄った。充分にお金がかけられないので、試験前にしていたのはひたすら図書館へ通い本を読み映画を観ることだけ。赤本や問題集すら買っていない(高校の進路指導室で先生と話をする時に眺めはしたけど)。
私は公的な資源(公立図書館、都立高校の図書館、進路資料室の資料、先生)に大変お世話になって、私立大学へ行った。学費の高い大学だったけど、3分の1免除だったから(当時はまだ全額免除が無かった)普通の私立くらいの出費で済んだ。
親や家の援助が得られない機能不全家庭出身の若者も、周りに適切なリソースがあれば、力や可能性を開いていくことができる。資金援助も大切だけれども、それ以外にも支え方はたくさんある。特に自律型で元々一定の能力がある子には、適切な目や知見を持つ大人が、状況を整理して周りの使えるリソースを伝えたりとちょっと後押しするくらいでも大きく状況が変わることもある。その時に使える公的なリソースがきちんと社会にあれば、一人ひとりに付きっきりでお金をかけていかなくても全体的にカバーすることができる。そしてそこに繋げ、可能性を示し導いていける大人がきちんといることも大切。
「公立」の施設、教育機関の意義ってそういうところにあるんじゃない?大学も、国公立は、たとえ施設が最新鋭の便利なものでなかったり個別に全力サポートみたいな体制がとれなかったりしても、一定の(できればなるべく高)水準のものを広く開いてその先の機会や将来に繋げることで、集める額としては少ない学費と相殺して社会に循環を生む場なのでは?入試で非常に広範な準備をさせるのも、それに適応できる下地のある人を掬うためだと私は認識していたんだけど?
さて。R. Shimadaさんの「生活保護世帯から東大で博士号をとるまで」は非常に示唆に富んでいるので興味のある方はご一読を。
私はやはりマイノリティーとしては非定型で恵まれている点もあったのだと思う。自覚はしている。自分で切り開かなければいけなかったけれども貧困ではなかったし、家の外では、人にも恵まれた。それでも、その完全にかわいそうな状況でもなく障害があったり能力がないわけではなかったり平然を装って色々こなせてしまったりしたから状況だったからこそ、素地の無い人には決して、理解されることがなかったし配慮も得られなかった。
R. Shimadaさんの記事の中には教員にも見下されるようなことを言われ支援を得られなかったということが出てくるんだけど、これも村社会「である」の世界の閉鎖性、凝り固まった価値観や視点の中の権威者の在り方そのもので、人を踏み躙り傷つけ可能性を潰していく。R. Shimadaさんは特別に力もあったし決意も固かったから、それでも自分で切り開いていけたけど、「大半」のケースではこうはいかない。
私は先生をはじめ、「する」の人や世界に救われた。全ては過去だけど。
「外面だけ」の歪んだ機能不全家庭内でスケープゴートやサンドバッグにされ続けた結果、特に外面だけ口先だけの権威を振りかざす者へは口も心も閉ざすし絶対信用なんかしなくなったそもそも極度の人間不信でも、きちんと本質を見て、neutralに状況を判断し、better wayの可能性と足掛かりを示せる大人がいたから、理不尽や暴力の外の世界も見ることができた。先生に会えず大学へ行っていなかったら、私はそのままグレることすらできずに10代で死んでいただろう。
そこからもうこんなに長く生きたし、何より私は誰も殺さずに済んだし犯罪に手を染めたり新たな被害者を生んだりすることもなかったから、充分でしょう。
山上被告だって、誰かたった一人でも、彼をきちんと見つめて適切に手を差しのべてくれる大人がいて、私が行った大学のようなところへ入れていたら、人を殺めずに、むしろ今頃存分にその能力を発揮して活躍していただろうにと、本当に残念に思う。間違いなく優秀な人なわけだし。
R. Shimadaさんは本当によく一人で生き残ったなと思う。ある意味一人でやり切るしかなかったからそこまでの力を引き出せたという側面もあるとは思うけれど、そんなの当人にとってはしんどさ以外の何物でもない。まともな大人が周りにいたなら、どれだけよかったことだろう。張り詰めた雰囲気や死の空気も漂う感じがするけど(やっぱりこの方にも臨死体験があった)、どうか生きて、その力を発揮していってほしいと思う。
公教育の「公」性を捻じ曲げ切り捨てていったら、特に「国立」大学の学費を値上げしたら、こういう特別に力ある方も一緒に切り捨てられていくし、そこまで抜けていなくても社会を支える多くの(一般の)若者の機会を奪い、社会の地盤沈下をさらに加速させることになる。
「国公立」の教育を、「私学経営」や「特権層」の常識や都合で捻じ曲げることには断固反対である。
タイトルと歌詞のギャップが絶妙だよね。「クジラのステージ」の展開とかもそうだけど、今のCocco、すごくいい。
ギターと遊べる場所も無くなってしまったので人のいない線路沿いでこっそり歌った。人気を伺いつつ歩きながらだしもう2ヶ月以上無発声生活だ(時たまの買い物で言う「袋いりません」くらいしか発声しない)からもうギターも無いのにピッチが全然不安定。歌い出しが特にひどいね、声出すのも久しぶりだったし。でも短い一本録りの中でも同じフレーズで一回めより二回めのほうがマシでしょ。何事も維持するには継続、手入れが必要。
「クジラのステージ」といえば、最近久し振りにまた公式動画を観たんだけど、前に聴いた時と音が変わっていた気がした。前は歌が浮いていて機械っぽい不自然な感じに修正されていたはずなんだけど、今のはCoccoのライブらしさが残る感じになっている。すごくいい。楽しそうだし。ちゃんとしたのを聴けてよかった(前はピッチ補正ソフトとかで編集した簡易版だったのかもしれない)。
私は「多様性」を考える上で今のCoccoがとても参考になると思っている。彼女、「持続的に、歌い続けられるよう」本当によく考えて、多分スタッフとたくさん話して(時には喧嘩して)、きちんとコミュニケーションをとりながら、自分にもスタッフにも、何よりファンにもbetterな方法を「チームCocco」総動員で模索して今の状態に辿り着いたんだと思う。これってまさに「建設的対話」だよね。
「顔出しNG」とかも、最初はどういうことなんだろうって思ったけど、全ての人に全ての場面で見せたくないわけではなくて、自分がいいと思える「安全な」相手や場所(ワンマンライブや自分で発信する映像等、いわゆる「ホーム」の環境)であれば何の問題もないことで、そこでなら硬くなることもなく屈託もなく笑っている(対して、TV放送とかフェスとか「マス」対象で切り取られ方も自分でコントロールできないところでは、ヴェールやサングラス等を纏って自分を守りつつ、それでも姿を見せている)から、負荷をコントロールしながらコンディションも露出も維持したいということなんだよね、公私を使い分けつつ。すごく合理的だよ。「皆にとって」良い形。
昔に比べると、Coccoは自分のことばで自分のことを発信してくれることがすごく増えて、話を聞くと、「ああそうか、だからこうだった/なんだな」って納得することも多いし、私はもうライブには行けないけど、それでも彼女の今に触れる機会は前より確実に増えた、近い距離感で。
たとえ大衆向けの放送やライブ、雑誌などで顔が見られなくなったとしても、勿論露出量の割合からすれば得られるものは少なくなるんだけど、代わりに私達には、緊張したり負担になったりすることなく満面の笑みを見せて語りかけてもらえる場があるし、そこが濃いから、頻繁でなかったとしてもかなり満たされる(まあ、長年のファンは活動休止とか復帰後の不安定や引退未遂の繰り返しで相当に「鍛えられている」ってところも大きいと思うけど)。
顔を見られない場面があったとしても、ちゃんと繋がれるんだよ。互いに思い合い、気遣い合える間柄であれば(これ、マスクもまったく一緒だよね)。顔はあくまでその人の一部でしかない。私はCoccoが好きだから、彼女がいて、姿を見せてくれる機会があるなら、その時に顔が隠れていても嬉しいし(そもそもマスクをしていても目は見える。目が伝える情報は非常に多い)、顔を隠さずに姿をを見せてくれる場所も、「安全な」ところでは、彼女はしっかり作ってくれる。その「安全な」ところが、たとえ少なかったとしてもあれば、私は充分に嬉しい。(「安全な」場では、素顔が見られるんだよ。相手の素顔を見たいなら、無理矢理脱げ外せと暴力的に強奪するより「安全な場」をどう作れるか模索するほうが遥かに生産的。)
最新アルバム「ビアトリス」発売時のインスタライブもすごくいいよ。
https://m.youtube.com/watch?v=ML_appUYAWg
https://m.youtube.com/watch?v=UxR0oGVKImk
話を聞いていて、やっぱり私、(昔はなかなか見えなかった部分が多かったけどそれでも)好きになるべくしてこの人に出会い、聴き続けてきたんだなと、改めて思った。彼女もメタ認知が強くて自分の状況をしっかり見ているし、その上で合理的な方法を探そうとしている(Coccoは不思議ちゃんなんかじゃなくてしっかり常識を持った現実主義者だよ)。音楽的なところに関してはやっぱり理論を超えた天性のところが非常に大きい。これはダレンもそう。二人とも楽器はあまり演奏しないしおそらく音楽に関して専門的な教育を受けたこともボイトレにかかったことも無いはず、歌い方から判断するに。
何でかな、Coccoを考えるとダレンが出てきてダレンを考えるとCoccoが出てくる。ダレンもやっぱり出会うべくして出会っていた人だし。そして二人とも、無理をしていた昔よりも今のほうが全然、自分らしくいられるようになっていて、のびのびしているし楽しそう。そういう姿を見られたことはある意味私にとっての救いでもあった。
少しずつ時代が変わって、ダレンについてはLGBTQへの受け止め方は大きく動いたし、そういう流れの中で彼は表舞台への復帰、新作発表と共に、自身についての発信を始めるようになった。Coccoも自分が苦痛に感じることを表出した上で、それを緩和する策をとりながら、前より多くのメディア出演もこなしつつ、やっぱり自分のことばで、自分を伝える機会も作っている(そう言えば、絶対音階があるのかまでは不明だけど、Coccoもキー(調)のイメージを明確に持っていることが2月のインスタライブでわかって面白かった。ライブで全然キー変えることがないよなとは思っていたんだけど、「この曲はこのキーで歌いたい(んだけど黒鍵部分が難しくて弾けないから弾きやすいところでデモを作って、本当はこのキーで歌いたかったんだって伝えた)」って話をしていた。(ダレンは絶対音階は無いと思う。)
二人ともとても優しくて相手の立場や状況を深く思いやることができる人だし、自分だからこそできることをきちんと認識して、意識しながら歩き始めてくれている。薄っぺらな上辺外面だけでない、中身がつまって重みがあることばは響く。嘘が無い。
やっぱり絶望を知っている人って共鳴し合うところがあるのだと思う。昔は特にダレンが抱えているものは直接見えなかったし、Coccoは何かがあるのは明らかだったけど、それが何なのかはヴェールに包まれていた。それでも出会うべき時に出会って、Coccoとはずっと、ダレンとは離れたけど再会して過ごしてきて、色々なことを伝えてもらえた。たとえリアル知り合いでなくても、ほとんど対面する機会が無かったとしてもね、人は誰かを大切に想ったり繋がったりすることができる。
そして、「知っている人」はたとえ抱えているものが違ったとしても、相手の状況や心情を「察する」ことができるようになる。先生もそうだし、Coccoもダレンもマイノリティーや困難を抱える人々への関心や共感が高く、自分から歩み寄っていっている。はるな愛さんもとても優しいよね。川上先生や江原先生の弱者への眼差しも、理由や程度の差はあっても、同じようなことなのだろうと思っている。
一方、重大な(特にマイノリティーとしての)苦難や絶望に無縁で、「所与」の恵まれた環境資質により自然に(難なく)結果を出せ、(再生産された)特権的な地位にマジョリティー、権威者として安住する(他人にだけ向ける)「自己責任」が大好きな層は、「察する」はおろか、驚愕するほど、まるで受話器が外れている電話機のように「不通」状態なのだ。回路が繋がらない(聞く気が無いからね)。断線している。それでいて「(聞いて)分かった気でいる」のだからどうしようもない。
話を戻すと、自分のことを見つめて受け入れて、周りと対話して、メリハリつけながら無理なく歌い続けていく道を彼女が自分で選んだこと、それを受け入れる人がきちんと周りにいてくれたことが私にはとても嬉しい(それが叶わなかったら、彼女はまた姿を消してしまったかもしれない。そんなの誰にとっても不幸だよね、本人にもファンにもスタッフにも)。
Coccoは本当に特別な人だけど、そういう天に選ばれた人だけでなく、社会には色々な、ちょっと思い合って調整配慮工夫をするだけでも力を発揮できるようになる人がたくさん埋もれている。それがたとえ「障害」や「診断」というラベルのついていないものだったとしてもね。
今後はコロナ後遺症で認知や全身臓器を蝕まれた人達が未解明の症状で業務や生活に支障をきたすことが増えるし(未解明なので当然「診断」もつかない)、今は「診断」がつくようになった発達障害だって、それこそ私が子どもの頃には存在しなかった(認識されていなかったから「診断」も無かった)。
「人口減少時代」に必要なのは、排除ではなく「多様性」ー本質的に違いを受け入れ、「対話」を続け、「共生」の道を模索すること。
労働力不足だって、「奴隷」としてでなく、きちんと尊厳を持った「人間」として見て、受け入れていけば、いくらでも、国内にも「人手」はある。「自己責任」で切り捨て排除をするのではなく、「対話」を重ねて、より良い形を模索していけば、それは困難を抱える当事者だけでなく他の人の環境改善にも繋がっていく。
そもそも「多様性」って、生物の生存戦略としても合理的なんだよ。皆が皆同じ性質でいたら、そこを狙う何かが発生した時に一律アウトになる。でも、違う性質を持つ個体が含まれていれば、そこは生き残る。近親相姦がタブーなのも倫理面の他にも遺伝子が煮詰まっていくと異常が起きやすくなるというのがあるし、文化や思想などについても単一のものに固執すると狂信化したり排外主義的になったりする。「違い」を内包することで集団の健全性は保ちやすくなる。
「ただの風邪!」「with コロナ(ノーガード)!」が主流の集団に合わせて優秀なウイルスは着実適切に変異を重ねている。何故か日本でだけ(KP.2ではなく)XDQが定着しているのも、それはXDQが日本人が作り出した、日本人や日本のノーガードぶりに「(ウイルスの視点で)合った」株だからだと私は思っている。
そして結果が見えてくるのは少し先になるだろうけど、その間もしっかりこの国の民はしっかり「コロナ禍が明けた」ヒロポンと共に、極めて合理的なウイルス相手に「お気持ち」という不合理を煮詰めつつ無事にインパールしていくのだろう。「理」の無い集団は止まらない。
興味深いことに同調圧力が嫌いなはずのノーガード達は群れて何故か定型句で感染対策を呼びかける方や病院などへの嫌がらせを繰り返している。すぐにそれとわかるお決まり表現には「茶番、枠珍(何故かワクチンをこう書く)、毒枠、汁(ワクチンの意)、素顔、目覚め、真実、マスクは不潔、空気感染だからマスクは無意味」等があるのだが、その一つに「ペラペラの紙切れたった一枚で」というものもある。
マスクの薄さや通気率から、マスクをしても網目よりウイルスは小さく隙間を通過していくので意味は無いという主張なのだが、そもそもマスクの素材は紙ではなく、不織布製のものではウイルスは分子間力でエアフィルターに絡め取られ固定される。顔とのフィット性の低いものでは隙間からフィルターを通さないウイルスが直接入ってくるため防御率が下がるが、その場合にはしっかり頭の後ろから固定させるN95を選択することができるし、その他一般的な耳にかけるタイプのものでも、まずはノーズワイヤーをしっかり利用し装着前に自分の鼻に合わせ折り目をつけることでだいぶ隙間は減らしていくことができる(※N95を使用していたとしても適切な装着をせず隙間を作っていては意味が無くなるのでユーザシールチェックが必要)。
「マスクが不潔」については同じものを使い続けていれば当然そうなるが、不織布マスクは基本的に使い捨てである。また、フィルターにウイルスや細菌が付着している状態を不潔と言っているのであれば、それは(ウイルスは網目を通過せずに補足されるという)マスクの有効性を認めていることになり日頃の主張内で捩れを起こしていることになる(し、不織布に絡め取られたウイルスはそう簡単に剥がれない)。適切に不織布マスクをしていればフィルターが固定してくれるようなウイルス細菌等を積極的に体内に取り込むことのほうがよほど不潔ではないか。
この層は免疫についても謎主張を展開していて、マスクは不潔だと言いながら、対策しすぎで清潔過ぎる環境では免疫がつかないとも言い、諸々に無対策の自然感染をさせようとしたりトイレで手を洗わなかったりもする。最近、女性でもトイレで手を洗わずに出て行く人間をちょくちょく見かけるようになって心底驚愕しているのだけれども、これがもれなくノーマスクなのである。トイレで手も洗わない者が主張する「不潔」とは一体何なのか。それは客観的な(ウイルス細菌数等の容易に指標化できる)「不潔さ」ではなく、「主観」(「お気持ち」)によるあまりに大きく歪んだ認識である。
「客観」や「メタ」を/が獲得していない/機能不全状態の「主観」が全ての層は、
自身が赤の他人に汚い咳やくしゃみ、鼻水を盛大にダイレクトに振り撒き続けることの「不潔」さを認識することも一切できない(「自分が全て」なので当然「相手の立場」を慮ることができない)。結果、公共空間で汚い咳をしているのは九割方ノーマスク、ということになる(自分以外への影響を考えられる層は症状がある時に出歩かないしどうしてもという時にもマスクを着用するので)。致命的である。
「空気感染だからマスクは無意味」は、しっかり「飛沫対策」対策でマスクをしていた人々が(飛沫対策としてはマスクの効果は非常に高いが)「空気感染」ともなるとマスクでは防ぎきれなくなると落胆するならまだわかるのだが、それでも、だからこそ特に感染者がしっかりマスクを着用して空気中へのウイルス排出量を減らすことこそが重要+感染したくない者もマスクをすることでウイルス曝露(吸引)量を少しでも減らすことが重要だと言えることだし、「コロナは空気感染する」の見解がまとまったことはそのように「より慎重な対策を要する事態である」と認識するのが合理的であるにもかかわらず、そもそも「空気感染」以前に「飛沫」ブロックのためのマスクはおろか全ての感染対策を全力で拒否してノーガードをかましていた者達が揃って「空気感染」「空気感染」と全く真逆の方向で叫び続けることは心底意味不明である。
「空気感染するからマスクに意味がない」なら、「(空気感染に影響しにくい)屋外」ではマスクをしたらどうか。しかしそうなることは皆無である。「屋内でも屋外でもマスクをしたくない」だけだからだ。「飛沫感染」も「空気感染」も関係ないではないか。つまり、ノーガードの行動とコロナの「空気感染」する性質は全く連動していない。それなのに一つ覚えで「空気感染」を叫び続けるのはその主張自体が破綻しているのだが、「主観」が全ての層には全く顧みられることがない(「主観」しかないのでメタ要素が必要になる「内省」が機能しないのだ)。
「マスクをすると熱中症になる」や「マスクをすると酸欠になる」が科学的に否定されている「お気持ち」でしかないことも、これまで何度も書いてきている通りである。息苦しさに関してはKF94等の立体マスクを利用すれば緩和されるし、何より「マスクをすると苦しいという思い込み」が息苦しさを作り出しているところもあるので、そのような偏見から自由になることが、(感染や感染後の後遺症によるものも含めた、「息」だけでない)苦しさの低減に繋がる。
反マスクのマスク拒否にはマスクの性質もコロナの性質も一切関わっていない。「不潔」も「熱中症」も「息苦しさ」も客観的には否定されている。しかし「論理」もデータ数値等の「根拠」も全て無効化されるのが「理」の無い世界なのだ。
そこにあるのはただ「自分はマスクをしたくない」し「他人のマスクを外させたい」という「主観」(お気持ち)だけ。その欲求を通すために明らかな不合理を恥ずかしげもなく主張し続ける。これができてしまうのも「理」の無い集団だからこそである。
そこには「客観」も「メタ」も「内省」も存在しないのだ。だから「不合理の不合理」を指摘しても理解されない(そもそも聞く耳も持っていない)し、正面から論理で向き合わず逸らしたり、平気で開き直ったりする。
まったくもって理不尽である。しかし理不尽な集団が理不尽ことをするのは不適切だが当然のことであり、だからこそ救いが無い。
ノーガード達は科学的(客観)的な事実を一切無視した思い込み(主観)、主張破綻と合理的な解決策を否定した上での「自分は他人にためになんかマスクをしたくない」という「お気持ち」の強行で他人に否応無しにリスクを押し付けている状態であると言える。
感染対策をしている者からすれば、ノーマスクは「たった一枚のペラペラ」すら着けることを拒絶する「自分が全てで他人がどうなろうと全く構わない」という精神性ー暴力性や加害欲の体現である。そのような者はまったく同じ形で「たった一枚のペラペラ」であるゴム製避妊具も拒否するだろうが、このことと関連させてノーマスクを考えてみると非常にわかりやすいだろう。
自分の快楽や気持ちだけを優先して無理矢理、相手の合意、簡単に取りうるリスク低減策のいずれも「無し」で事に及ぶのはどういうことか。それは明らかな暴力、加害である。
ゴム製避妊具で妊娠も性病も、完全に防ぐことはできないが、それでも確実にリスクを下げ、相手の負担を軽くしうるものである。リスクを負うのは自分ではないからと傍若無人な振る舞いをする野獣になど、よほどの共依存でもなければ身も心も開かれることはないはずだが、悲しいことに多くの場合は無理矢理身だけ開かれ心は壊されている状態だろう。それは性加害である。
性行為で感染連鎖することが多いHIVウイルスもAIDSを発症するまでは大きな症状が出ないものである。HIV陽性者がAIDS発症前の(一度症状が治まり「ただの風邪」ですらない)元気で動き回れる間に、自分はもう感染していて(これから感染する)リスクは無いし、相手は「自己責任」だからと無対策で高リスク行為を繰り返しウイルスを拡散し続けるのはどういうことか。コロナ感染とノーマスクもこれと同じようなものである。
「安全な場」あるいは「納得、合意の上」であったとすれば問題ないことも、合意も安全も無い場合には別となる。そこでできることは関係性と「安全」の構築、すなわち「対話」ー自分も相手も尊厳を持つ個人として対等に向き合い、一方的に押し付けるのではなく相手も受け入れつつ話し合いを続けて、より良い共生の道を模索すること、感染症の場合は感染者数や感染リスクを低減させることである。
反マスクにとっては「自分がマスクをしない、相手にマスクをさせない」が目的となっているが、感染対策のためにマスクをしている者は「マスクをするのが目的なのではなく感染リスクを下げるのが目的」である。外出時は常にマスクの筆者も、自室内(誰も来ない「安全」な場)でマスクをつけることはない。相手を素顔にしたいと思うのならば、感染連鎖を抑えることこそが有効である。しかし「お気持ち」だけで動く理不尽な集団には理性も合理的な判断も一切見込めない。救いがない。
「感染対策」でなく「ウイルス」との共生を選択し、「経済」でなく「感染」を回す美しい国。皆様しっかり複数回感染を重ね後遺症を発症し、持続感染するウイルスを体内で煮詰めて、生涯にわたる影響を甘受していくんだろう。「この道しかない!」と各人が主体的に選択したのだから、それは当然の帰結である。
"I believe in karma, what you give is what you get returned."
どうか「感染対策をしている人と子ども達は」巻き込まれませんように。
目の前に見えているものだけが全てじゃない。その裏には無数の因果の元が存在しているし、見かけとは真逆のことが起こっていることもある。
一見微笑んでいるように見える者が全く相手を信用せず懐疑していることもあるし、死について考えていることもある。
道で歌いながら歩いている人間が2ヶ月以上ほとんど発声自体をしていなかったり絶望の果てに「終わり」を迎えようとしている者だったりすることもある。
たとえ困難があったとしてもその原因を見つめ緩和しうる合理的な対策を施し支えればそれなりにやっていけるようになることもある。あるいは逆に、たとえ資質的には整っている場合にもその表出が阻害される場合もある。
絶対音感があって認知的には音を把握できたとしても歌うのは物理で技術だから、声すら出さない日々を続けていたら当然衰えるしピッチも不安定になる。その際、元々出しやすい音域はそんなに大きくは影響を受けないけど弱い部分(私にとっては低い音)はすぐに出なくなるしコントロールがきかなくなる。そんな状態からでも歌い続けていたら徐々に声は出しやすくなっていっていたし低音も少しずつ出るようになっていった。けれども、歌だけなら快適に歌えるようなコンディションに戻っても下手っぴなギターと一緒だとギターの負荷に釣られて歌もコントロールを失った。それでもギターを下手なりに続けていたら、一緒に歌うことにも慣れていった、少しずつ。
ピアノには全く問題が無かった人間がギターには強い困難を抱えることもある。二次元の空間認識には問題が無いのに何故か三次元になると認識がおかしくなってしまう、ことが(長い間全く気付きもしなかったのに)たまたま始めたギターの練習や困難で発覚することもある。それでもその困難の度合いを下げるため、(フレットと複数の指が斜め角度で交差する)コード弾きを諦め(基本的に必要な部分を一つだけ押さえればいい)ベース弾きにして練習を続けていたら、それなりに楽しく、その時降ってきた曲を歌えるようになっていった。けれどもまた歌うことをやめたら振り出しに戻った(ギターは今はもうきっとほぼ0の状態だろう)。
外面がよい、どこからも問題があるようになんか見えない家の中で虐待が行われていることもある。そんなことを全く口になど出さず、非行や(保健室登校含む)不登校や虐めからも無縁で進学校に(遅刻ばかりだったし全く勉強はしていなかったけど)休まず通う者が、家では連日罵詈雑言を浴び(幼少期から非常に強い抑圧命令強制で縛られ続けた自身の傍らで)無条件で甘やかされ続け暴力性を増大させていく野獣と突きつけられる死の恐怖に怯えているようなこともある。それでも直接言うことなど全く無かったのに事態を素早く察知した先生もいる。
大人、特に優位な立場にいる善人風の人間を全く信用せず激しく懐疑する者でも、大人で教師であっても、危害を加えてくることも利用搾取してこようとすることもなく、見かけ上の家の状態で判断することなく、当人の声に本当に耳を傾けようとしているんだということが伝われば、徐々に心を開いていくこともある。
在学者の大半が裕福で安定した家庭の出身の学費の高い大学にも、機能不全家庭出身者が通っていることもある。複雑性PTSDの元プリンセスだって、その配偶者だってね。
幼少期からの教育虐待で何かができるようになると自分には悪いことが起きると「できる」ことに苦痛を感じ、不本意なことを避けるために音楽も勉強も遮断していた者も、適切な知見と共に差し伸べられた手によって、まずは(「受験のための勉強」や「丸暗記」はともかく)読んだり何かを知って考えたりすることは嫌いではない、大学に行きたくなかったのは本人の選択肢や意志を全否定して勝手に決められたものを押し付けられるのが嫌だったのだと気付き、自分に合った大学に行くことにしたことで、入学後に学ぶことの楽しさと学んで自由になっていく可能性を体感できるようになることもある。(大学入学以降は音楽との距離も縮まり、特にくるりのライブで「生」の場、音の格別さを知ってしまってからはライブジャンキーと化し、濃密な「聴く」を繰り返していた。自分で「弾く」ことの抵抗も無くなっていたはずだが、きっかけが降ってくることがなかなか無く、それでも昨年夏にたまたまギターを手にしたら、適性が低すぎて下手で上達が遅すぎて時々イラつきながらも「終わり」のしらせが来るまではずっと練習を続けていた。)
幼少期から「外面のよい」機能不全家庭の中で起きてきたネグレクト、教育虐待、差別的処遇差、理不尽暴力(罵詈雑言、存在尊厳意志の全否定、進路強制)の果ての刃物による臨死体験を安定の「お前が悪い」で「無かったこと」として一件落着されたことで絶望が焼き付いた、常に死と隣り合わせであった者であっても、理不尽に攻撃されることなど無く、個の尊厳が尊重され「違い」も受け入れられる安全で公正な場で、多くの尊敬信頼できる先生方や互いに切磋琢磨し合える仲間達と過ごす中で、自分を保つ術や自分がなしうることを探しながら何とか、暗黒の沼に足をとられないように日々を繋ぐことができるようになることもあった。しかしそれも、理不尽や暴力との日常的接触により崩壊した。上に、いかに自らが「はじめから終わっていたか」を、人権の尊重を主張する法人に、決定的に示していただいたことで、こうして「終わり」の時を迎えようとすることになるようなこともある。
広報上は良さそうなイメージを積極的にアピールしている組織の内実が、それと全く真逆であることもある。
帰国生受け入れのために設立され、手厚い日本語支援や少人数教育を支援を主張する高校の中で、日本語教員養成を受けている教員をわざわざ「日本語」の授業担当から外し日本語教員養成を経ていない者を担当させること、困難度の高い生徒が受講する現代文のクラスの人数調整(せめて15人以下にすること)が拒絶され続けることもある。
人権の尊重や対話や多様性の重視を尊重する法人の中で、人権侵害についての申立が逸らされ続け、【無かったこと】にされることもある。
授業中に発話する生徒のマスク着用もしくはマスク非着用者との接触を避けられる法人内別部署業務への転換などの合理的配慮があれば勤務が可能であった者も、無理解無配慮で退職させられることもある。【人権の尊重】や【安全な環境】づくりを主張する法人へ、【無期雇用者】が、それゆえに適切な業務を配置してほしいと何度も依頼しているにもかかわらず【自己責任】で。
安全が脅かされずなしうることが限りは何とか工夫して生を繋ぎ止めようとしていた者も、リスクしかない日常の中、生きる意味も心の安全基地までも喪失したら、組織が突きつけたものと同じ「効率性利便性」という意味での「合理的」な手段、つまり「苦痛を終わらせるための死」をとらざるを得なくなる。
「多様性」は主張するだけでは達成されない。「バイリンガリズム」や「リベラルアーツ」等によって得られる、単一の視点に固執せず、異なる立場を知り想定する複合的な観点や思考を持って、「対話」を続けること、「批判的思考」によって問い、「検証」することが必要である。
また、「多様性」を阻害するのは独裁的な権力構造、集団の同質性、閉鎖密室環境によるブラックボックス化不透明化で、これらは視点を単一膠着化させ、異なる(不都合な)物/者事、「対話」や「検証」を徹底的に否定拒絶排除し、全ては権威者の意のままに、あったことも無かったことに、無かったこともあったことに、できてしまう圧政状態を作り出す。そしてそのように全てが都合よく回る世界では認知も歪み、「できていないこともできていること」「大丈夫でないことも大丈夫であること」として認識されるようになる。致命的に「自己/集団への批判的思考、検証」回路が失われるのである。
結果、上辺だけ形だけの主張と実情との乖離が加速する。それらしい「理念」や美辞麗句の裏で全く真逆の事態が進行したり強行されたりすることになる。
「大丈夫でない」状態を体感したこともない「大丈夫」あるいは「大丈夫なつもり」で生きてきた強者既得権益者達の特に同質閉鎖的集まりは決して「大丈夫でない」状態やこと「自分(達)とは異なる他者」を想定しないし、認めないし、受容もしない。
桜並木の木々の寿命も、キャンパス内の腐食枝落ち倒木も、筆者の件も、法人の現在や今後を映し出しているのだろう。
あまりに世界は美しい。
美し過ぎておなかいっぱい。
「もう充分に幸せ」、だから、これでいい。
さよなら。