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Track#03 "I Knew I loved you" (from "Affirmation" by Savage Garden) Guitar1207&1221

Savage Gardenの2ndアルバム"Affirmation"の3曲目に位置するのは”I knew I loved you”。この曲はデビューアルバムの”truly madly deeply”同様に、おそらく(主に)女性が(運命の?)男性に言って・思っていてほしいことが詰め込まれたロマンスソングとして非常にロングヒットした、世間的売り上げ的には彼らの代表曲、であるはずなんだけれども、私には全く思い入れがない、を通り越して苦手で鳥肌モノの作品である。。

歌い直してみたものの、やっぱりただ通り過ぎて(というかやり過ごして)いくだけ、という感じになってしまった。
この曲は、運命の相手への希求とか切望とか、ダレンの中にある本来は屈折して闇や狂気とも繋がるエッセンスを、「一般大衆」向けにだいぶ毒を抜き、美しく調整した形の、私にとっては「他所行きのダレンの曲」という認識のもの。
そして、これができてしまうところはやはりアダルトチルドレンの性。”Hold me”の時にもその性質について少し書いたけれど、一定レベル以上のアダルトチルドレンは生存戦略や自己防衛のために、相手の求めるものを(無意識のうちに必死で)見極め提供して(無理矢理できて)しまうところがあるから。
ダレンは曲やパフォーマンスを通して人々に自分を愛してほしかったという旨の発言をしていたこともあったと思う。やっぱり根本的な愛情や受容の体験が欠落しているからそうなるんだよね。運命の相手を強く求めることも含めて。

この曲を前回歌ったのは11月12日。9月末に”Gunning down romance”"You can still be free"で、ダレンが鳥になっていたと気付いて、"Affirmation"に入っている曲は全部歌ってみることにしたんだけど、ラスト2で残った”Hold me”を歌った後、月の歌シリーズ?を始めたり、スクリーンショット集の消化を始めたりと散々に避けまくって、約1ヶ月後に(色々終わってしまって)やっと渋々歌ったという始末。
比較的最近なので、既に歌い直しをアップした2曲("Affirmation", “Hold me”)に比べると変化は少なめかな。当時の背景音は鈴虫がほんの少し残っているだけで虫の声もほとんど聞こえなくなっていた。
この頃、(昼間は暖かい日も多かったけれど、)既に夜間はだいぶ冷え込むようになっていて、寒さのせいか年末意識が入り、to doの消化を急ぎ始めたのだと思う。

スクリーンショット集は、ほとんどの場合は曲の特定で満足してそのまま記憶の彼方へ、、という感じだったんだけど、それらをまとめて掘り起こして、歌いながら色々考えられたのはよかった。
そして、スクリーンショット集の消化後に、これまでの展開であれば新たなスクリーンショットとしてそのまま休眠することになったであろう”Don’t get me wrong”でロブと再会してしまった(ついでにスクリーンショット集の消化でバンド名を知ったPretendersが、私がぼんやり知っていた”Don’t get me wrong”を歌っていたことも知った)のも非常に興味深かった。

その後のRossoの「シャロン」が記憶の奥底から浮上してきたこととの関連で思い出したんだけど、私、Matchbox Twentyやロブトーマスが好きだっていうことを誰にも話したことが無かった。洋楽仲間であれこれCDを貸し借りしていたYさんにも。
それは「シャロン」のことを誰にも語らず、カラオケでも歌わなかったことと同じで、私、おそらく防衛のために遠ざけた、機能不全家庭や抑圧虐待等、自分との近さ、それによる不穏な気配を自らに感じさせた対象への気持ちは他人に見せず、自分の中でもカプセルに詰め込んでどこかへ埋め込むような形で処理したんだな、と思った。

やっぱり根本的に人のことを信じていないよね、私。自分は勿論、危害を加えてくることなんて無い、仲良くしているはずの人のことですら。

沼の底に沈んでいたような記憶が色々発掘されたな。ギターや曲を通して。

ギターを始めることになったのは本当に偶然で想定外のことだったんだけど、きっと最後の自分の整理のために、そういうことになったんだろうなと、今こうして振り返ってみて思う。過程でダレンロブチバさんにも再会してね。不思議。

ずいぶん日が近づいているから、ラジオの選曲が非常にきつくて、まともに聞けなくなっている。代わりに聴いているのは、何故か今頃Savage Gardenの”Lover after me”, "You can still be free"”Gunning down romance"(歌い直しの時には「シャロン」ばかりエンドレスリピートしていて全然聴いていなかったくせに)とCoccoの「風化風葬」、そして「クジラのステージ」。(「シャロン」は時期が近すぎるせいかモードが変わったのか聴けなくなった。)全てエレジーレクイエムだわ。

そうそう、”Affirmation”の歌い直しは昨日(といっても日付け的には一昨日か、20日に最後の”I don’t know you anymore”も)、終わった。アルバム後半は私のエレジーレクイエムが多かったせいか、寒かったせいか、時期に飲み込まれているせいか、わりとしんどくてとにかく時間がかかった。多分ファイルの編集アップはもう全部はとても間に合わない。録音時間が長いから。それでも、遺せるところまで載せる。多分。

今日(昨日)はCoccoの「クジラのステージ」を歌った。この曲は最近の彼女の作品の中で群を抜いて好きだし、歴代の中でもトップクラスのお気に入り。一見明るく爽やかな曲調で、非常にのびやかに歌われているんだけど、扱われているのは圧倒的な絶望。やっぱりCoccoはCoccoだ、これは今の彼女にしかできないことだと、年明けに曲が公開された時、大いに揺さぶられたんだよな。当時の心境的にも。そしてこの曲も私のレクイエムになった。

まともに練習して歌おうとすると時間がかかるしもう録音もやめようかと思ったんだけれども、一本録りであれば今の記録にもなるし、すぐアップできるからいいかと、録ってみた。一部だけど。

明らかに練習が必要な3連符の部分をはじめに集中的に練習して、その後ベースの確認がてら全体を音源と一緒に何度かふにゃふにゃ練習した後、自分一人で歌った初回。間奏とあとどこだったかな、ギターを間違えたり違う弦に大きく触れたりで進行が妨げになった部分は切ったので、正式には一本録りではないんだけれども、ピッチとかリズムの乱れとか質的なbetterを目指す意味での調整はしていない。だから色々、まあひどい。

”Affirmation”歌い直しのアルバム後半部がきつかったのも、この曲の2番状態がわりと起こったから。
それでも時期は時期。というか逆に時期だからこそ、だね。

「叶わないと知りながら生きること」
「叶わないと知りながら歌うこと」
「叶わないと知りながら祈ること」
「叶わないと知りながら仰ぐ空」

Coccoは絶望を知っている。そしてあんなに伸びやかに、悲しく、美しく歌い上げる。ハッとしたよ、最初は全然自分と遠い曲だと思って聞いていたのに。純心無垢で夢を見ている、輝く子ども達のイメージとの対比、あまりの落差に一気に持っていかれた。すごいよやっぱり。一度でいいから、話をしてみたかった。そしてこの曲も生で聴いてみたかった。Coccoのライブ、本当に圧巻だよ。

“I started out clean, but I’m jaded”って、Matchbox Twentyの”Bent”にもあったけど、まっさらで未来と夢と希望に溢れているはずの子どもを絶望で塗り潰すなんて許されない。

コロナって本当に「ただの風邪」で、移されても移しても「大したことない」取るに足らない、問題にならないことなの?

感染直後の急性症状の有無重さにかかわらず、特に複数回感染が嵩めば嵩むほど、重篤な後遺症を抱える率が上がること、そういった重篤な後遺症で労働力や労働人口が確保できなくなってきていること、対策に多くの費用がかかっていること、顕在化してきていて既に海外で話題になっているよ。
オーストラリア、欧米やアジアで問題になって(各国続々とマスク着用を復活させて)いるJN.1(ピロラから派生した株)は既に日本でも検出されているから、この先年末年始の忘年会新年会帰省ラッシュで(しばらくはBA2.86、ピロラと一緒に)順調に数を拡大させた後、ちょうどまた受験シーズンにメインになって山がくるんじゃないの?そこをノーガードノーマスクで、子ども達にインパールさせるの?
家族と同居する年齢の子どもの感染は、親をはじめとする労働者の感染とそれに伴う業務の機能不全を引き起こすし、何より、この先生きる時間が長い子ども達は複数回感染と後遺症のリスクを長く抱えることになるんだよ。ここのところ特に、子どもの重症例も増えているよ(特にJN.1)。

見えにくい理解もされない、改善の見込みもない苦痛を抱え続けることが、どんなに、どれだけキツいか

そんなことを、絶望を、わざわざ皆、味わいたいの?未来を生きるはずの子ども達に味わわせたいの?子どもだけでなく、安易に他人に背負わせていいものなの?

主体的な選択で好き好んでそれを招くのであれば、それは当然、完全に個人の選択の結果なので、その人間がどうなろうと、他人が言うことは何も無い。ただ存分に味わっていただけばよいだけのこと(欲しいならいくらでも分けてさしあげるよ、この絶望を、、)。
でも、どうして他人や、よりによって未来ある、はずの子ども達に、仕向けるの?
そんなに、他人のために、合理的な配慮をすることって苦痛?

私がこの先を見ることはもうないけれど、暴力や理不尽の被害者、特に子どもの犠牲者が増えないことを心から願う。叶うことなんかないって、知っているけど。

「叶わないと知りながら生きること」
「叶わないと知りながら歌うこと」
「叶わないと知りながら祈ること」
「叶わないと知りながら仰ぐ空」

悲しいね。悲しいよ、Cocco。でも、もう終わる。悲しみも一緒に。



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