見出し画像

Struggles hard to be found(見えにくい困難)

ドキュメンタリー映画REALVOICEのメインキャストあやさんを見て、この感じが「見えにくい」暴力や苦難、見逃されて続けてきたことによる失望と諦め、ネグレクト、きちんと受け止められた経験の欠如が招くものなんだな、と、自身との共通点からも思った。

養護施設出身の母親によるネグレクトと貧困で日々の食事もままならず、(養護施設退所後)お腹をすかせながらの面倒を見ていたというあやさん。淡々とした語り口の中に、その境遇からは一般的には想定しにくい知性の欠片のようなものが垣間見られて、この子はもしきちんとしたバックアップ体制があったなら、それなりの大学に進学でき、それによって新たな世界を切り開き、貧困を脱していけたんだろうにと、非常にもどかしく残念に思った。

彼女は中学時代に部活の顧問に家庭の状況、ネグレクトについて告白し相談をしたのだけれど、「思春期だからそう思うだけ」と言われてしまった、その後も色々なところへ訴えたのだけれども、暴力を振るわれたりしているわけでもないしと、他に優先されるものがたくさんあり相手にされなかったと言っていた。非常に痛ましい。そしてある時、期待をしなくなった、そうしたら楽になったと言っていた。

私も同じだった(状況はだいぶ違うけど)。

どんなに望んでも状況は変わらない。一向に聞いてもらえない。
助けてほしい。でも助けなんか来ない。
言えば言うほど酷くなる。
神様?本当にいるなら、どうしてこんなことばかり起きる?
救いなんてどこにも無い。求めるだけ無駄。
言わなければいい。諦めればいい。

あの世界の中では常に、私が何をしたか、事実がどうであるかは不問とされた。権力者の見たいように、現実は形作られ、固められていった。
丸山眞男的に言えば「する」ではなく「である」で全てが決まる世界。
私は「私である」時点で既にアウトだった。母親(一族の「内」メンバー)を苦しめた男の娘であり、祖母(土地資産権力を持つ一族の中心)に「敵」「悪者」認定されたのだから。
何をしても、あの中は変わることがなかった。物理的に殺されかけても、証拠があっても、説明証明しても、歪んだ認知は歪んだまま。「かわいそうなのは〜ちゃん」、「悪いのは私」。

「生まれてすみません?」
太宰とは違って、私は私が謝る必然性は感じなかった。生まれてしまったこと、living deadのような生存が続いてしまったのは、私にとっては忌むべきことだけれども、それは自ら望んでのことではない。

あんなところで殺される位なら死んだほうがましだった。あんな人間達に殺されるくらいなら、外の人間に殺されたかった。むしろ本望だ。

声を、期待を押し殺して埋めた。深く深く、沼の底に。そして鍵をかける。

切り離して、何ともないふりをして、そういう姿を作り出して外で過ごした。そしてがむしゃらに動いていたら、たまたま良い環境と良い人々に恵まれた。
個性を尊重し、公平に、正当に、その人が評価される、「である」ではなく「する」の世界での学びには本当に救われた。世界や視野が広がり、学ぶことで少しずつ自由になっていくことができた。

それでも誰も信じ(られ)ず、そのことも覆い隠して平静を装い維持してきた。
信じたってどうせ裏切られる。だったらはじめから信じないほうがいい。
自分が理解されることなんかない。だからはじめから求めることをしない。

一般的な幸せなんて別世界の話。自分には関係ない。

揺さぶられるな、惑わされるな、正気を保て、希望を持つな。

周りには経済的にも精神的にも安定した家庭で大切に育まれた人が多かった。
卒業後、大手で稼ぎの良い企業へ就職したり結婚し家庭を築いたりする友人達の姿を目にして、正直寂しさを覚えていたこともある。でも、自分は違うんだからと諦めた。
そうして調整しながら「それなり」の暮らしを送ってきた。

近付かれ過ぎる場合には離れた。自分にも相手にも危険なことだから。きちんとした人達は、NOのサインを察してくれる。言いたくないこと、されたくないこと、来ないでほしい時。
「自分は自分、人は人」で他を尊重できる環境の中にいたから、そうして適度に距離を調整しながらやってきた。

今も周りとの連絡を断っている。
明らかに心配されているし、心配されたところで状況は変わらない。
それに都度返事をしていたら、それが途切れた時に「その時だ」と伝わってしまう。
それは相手にあまりに負担だから、こちらとしてはせめてもの配慮のつもりである。理解されることなど無いだろうけれども。

「死ぬな」「生きろ」は苦痛でしかない。
そんなものにさらされ続ければ、突発的に行なってしまうリスクが高まる。

「勿体ない」「できることがあるはず」
そんなこと言われても、もうどこにも、こんな状況と社会の中に何も選択肢は残っていない。

私はきちんと準備をしたい。
片付けて、整えて、始末をつける。納得のいく形で終わらせる。
誰にも邪魔をさせない。
ずっと何も選択できなかったんだから、最後くらい自分で決めてもいいじゃないか。他でもなく自分のことなんだから、せめて。最後の最後にやっと、私は私になれる。

もし私が、障害を抱えていたり、生傷など検知されやすい暴力を受けていたり、養護施設に収容されるような貧困、育児放棄等を受けていたりしたら、あるいは非行や犯罪、そこまでいかなくとも問題行動を繰り返すような状態や低学力だったら、就業能力を持たなかったら、色々違ったんだろう。勿論そういう状況はそれぞれにしんどいものではあるはずだけれども、わかりやすい問題は、気付かれやすいし支援のシステムも、決して充分ではないけれども提供されている。
けれども私の状況は「見えにくい」ものだ。暴力の形も見えにくい、加害者集団の外面の良さや連携、認知の歪みによって、行為は全力で無きこととして黙殺、隠蔽、される。さらに絶望に裏付けられた人間不信によって、私自身も苦難や問題をアウトプットしない。そして、特別な支援が無くとも自分の力でそれなりにやってこられてしまった(コロナ以前は)。

当事者研究も診断のつく「障害」の分野では動いている。「虐待」についても、近年は精神的なものを含め、当事者達が声を上げ始めている。でも、私のようなケースはあまり見かけない。「サバイバー」として名乗りをあげ発信ができるのは、外向きの力、それを可能にする希望を備えているからだろう。
REALVOICEも素晴らしかった。逆境をむしろ強みにして社会に働きかけようとするパワーにはひたすら感銘を受けた。まこさん(REALVOICE監督)は、では得られなかったけど、施設で大切にされ受け止められ、きちんと愛情を受けたのだろう。希望を忘れずに、人を求め集め、救いを生み出そうと発信行動していく力に溢れている。けれども私は人間を信じない。自分も他人も。そしてこの国にも社会にも期待はしていない。焦げ付いた絶望は剥がれない

それでもせめて、今後のどこかに参考になるようにと、記録を遺すことにした。もう自分を救うことはできないけれども、これ以上傷付く子を減らせて、今後を長く生きる子達のために少しでもできることがあればーそれは私がこれまで働いてきた中で思ってきたことと同じだ(REALVOICEであやさんが同じようなことを言っていて驚いた)。

ノーマスク社会・人間の中でもう働くことはできないから、準備と同時並行で、書いていく。大学や仕事のことも極めて重要ではあるんだけれども、身バレのリスクが高いので躊躇われる。差し当たり、特定されない範囲のところで遺していく所存である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?