Beasts(理性なき者)

吉川ばんびさんの記事(https://president.jp/articles/-/48039等)は、閉鎖的な環境で常に野獣の存在や暴力に晒され続ける恐怖やその救いの無さをよく表している。
私の場合はそこにさらに、「一族の誰もが」「事実を見ようとも認めようともせず」、よりによって野獣ではなく「私が悪い」と当然のように結論したこと、その後も何も無かったこととして平然と、勿論野獣も含めて閉鎖的な村社会の、土地と資産を仲立ちとした、馴れ合いと忠誠と盲目の「御恩と奉公」の世界でのうのうと過ごしていることが致命的な人間不信と絶望を焼き付けた。

利権で結び付いた世界では、その利権や利便性、環境固持のために構成員の認知は歪むし、平気で「白も黒」「あったことも無かったこと」にされる。私が徹底的に権力を嫌うのも、その周りの構造や起きていくことが、あまりに身近なものだからだ。

その昔、まだ院生だった頃、他分野の博士課程の方と話をしていて、勿論話すに差し障りのない表面的なことのみでしかも知人の話としていたはずなんだけれども、あの環境の土地を仲立ちとした「御恩と奉公」の性質について言及したら、「それはまさに丸山眞男の世界じゃないですか」と言われてゾクっとした。その人は歴史学が専門だったんだけれど、やっぱり知識があるとすぐ分かるんだと思った。

あの一族も、今の政治も、全て「である」で塗り潰される世界だ。根拠はいらない。客観性、事実であるか否かも問題とならない権力者の「〜である」「〜とする」で、それが「現実であることになってしまう」。実際どうであるか、何をしたかではなく「誰であるか」だけで全てが運んでいく。

まったく馬鹿げている。
「アンダーコントロール」と言って、「処理水」と言い換えれば汚染が無くなるのか?
「募る」と「募集」は違うって??
カルト団体も名前を変えれば別物???
5類」にすれば感染は無くなるものなのか????

おかしいだろう。
しかし「おかしい」だなんて、利権の中にいたらわざわざ言わないし、言ったら排除されるし、今はもう一部の「持てる者のみ」が蜜を吸い続けられる構造が強固に形成されてしまったし、その一方で底が抜けてしまった下層の無教育と反知性による他害性・排外主義を伴うカルト化・体制&垂れ流されるプロパガンダと自己との同一化によって、社会の大半がそれこそ見事に「統一」されつつある。だから体制に都合の悪いおかしさなんて認識もされないし問題にもならない。もはやかつての中流層もリベラルも崩壊した。今後もますます貧富の差は拡大し、下層が厚くなるだけなので、社会が変わる見込みもない。それこそ「オールジャパン」、ひたすら「今ここ」「自分だけ」の短絡で、自滅していくのみだろう。穴の空いた泥舟は止まらない。

夏の連休、祭りシーズン、夏休み、盆帰省と、これからが第9波の本丸となることが予想されるが、これまで感染しなかった層の初感染が最近増えてきているそうだ。当然である。どんなに自分が対策をしても、「対策をしない人間がいたら感染させられる」のだ。
対策をしない人間の数が多ければ多いほど、対策している者の感染リスクも否応なく上がる。国を上げてノーガードノーマスクの感染促進に大衆が見事に乗っているし、さらに5類化による自費化で検査も受けず自宅待機もせずノーマスクで飛沫を振り撒き積極的に感染を広げる人間達が、祭り!旅行!帰省!飲み会!とアクティブにウイルスを拡散する。そうでなくても休まない/休めない/休ませない/急性症状が治まり次第短期間で(まだウイルスを排出しているうちに)復帰させることで職場感染が連鎖していく。今後は学校等での子どもの集団感染から大人間の移し合いフェーズとなるだろう。
退職で職場感染のリスクは断ち切ったし、基本的に引き篭もり生活ではあるけれども、私もいつまで逃げ切れることか。

ノーガードノーマスクは自分さえ良ければ他を犠牲にして構わないという歪んだ自由感を体現した形である。そこにあるのは「今ここ」の「欲求」だけ。致命的に理性を欠いている。それは例えば山中のヒグマ、あるいはインドでヨダレを垂らしている犬(狂犬病)、庭のスズメバチ等と同じ。極めて攻撃性やリスクが高いものの知能を持たず理性が機能せず対話も成立しない対象なのだからひらすら避けるしかない。しかし、どんなに避けたくてももう数が多すぎて避けきれない。ひたすら無力感しかない。

犬は本来は適切な処遇や育成を経ていれば共生可能な存在である。狂犬病ウイルスに感染していなければ、犬全てを避ける必要はない。ただし、狂犬病ウイルス発生率が高いインドで、狂犬病の症状でもあるヨダレを垂らしている状態の犬のことは、そのヨダレは狂犬病以外で垂れている可能性もあるけれども、私は徹底的に避ける。また、ヨダレを垂らしていなくてもインドの野犬は避ける。目に見える形で現れていなくても狂犬病に感染している可能性があるからである。加えて、たとえ狂犬病ウイルスに汚染されていなかったとしても、躾がなっていなかったり先天的要因などにより結果的に躾が機能しなかった粗暴で他害性の高い犬は避ける。
ノーマスクを避けるのも同じこと。本来は人間なのだから知性と理性で社会的動物として互いにより良い形を模索していけるはずなのに、今ここ自分の欲求のみにひた走る集団。

ある意味共感覚的なのかもしれないが、ノーマスクの暴力性、理性の欠損、危険さは野獣の刃物の記憶とそれにまつわる絶望をも呼び起こす。だから息ができなくなる。そして過去の絶望が今や今後を上書きする。

どこにも救いは無い。昔も今もこれからも。
だから閉じる。不毛なことは長引かせない。

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