Environment(環境)

私が過ごしたのは、幼稚園から小学校までは父方(二世帯同居の戸建)、中学高校は母方(敷地内に祖父母が暮らす家(新築)やその他賃貸物件等ある中、建て替えで空いた戸建に入った)、年少以前はおそらく賃貸で父母のみと、大学以降はずっと一人暮らしという環境。小学校入学以前の記憶はあまり残っていない。加えて、高校時代も記憶の欠損がある。

一番古い記憶はおそらく幼稚園年中時代(場所からして年少の教室ではなかった)に園の廊下にあった足踏みオルガンを弾いているもの。しかし奇妙なことに自身を外(後ろ)から眺め下ろした像が浮かぶものであるため、もしかしたら写真によるものなのかもしれない。

父方と母方の関係では圧倒的に母方の力が強かった。子どもに色々なことを説明しないというか隠す環境だった&大人になる前にいずれとも離れたのでもはや直接わからないことも多いけれども、当時の状況を整理していくと概ね下記の通りだと思う。

父方
祖父の職業学歴は不明。寡黙で怒るとこわいらしいということを聞いたことがあるような気もするが、自分が怒られて実際にこわい思いをしたことは無かった。どういう経緯なのか不明であるものの、歌声を古賀政男氏に褒められたらしい。囲碁が趣味であるらしく、隣接自治体の写真館の主人がよく碁をさしに来ていてポルシェが停まっていた。当時は平気で周りでボール遊び等をしていたが、今思えば結構こわいことだった(傷をつけたら大変)。私が小学生中学年の頃だったかに他界。私に幼少期の記憶がほとんど残っていないせいもあるかもしれないけれども、話をした記憶がほとんど無い。

祖母は細々と働き者のイメージ。洋裁が得意であるらしく、大きなミシンが部屋にあり、近所の洋裁店にサポートに行っていたりした。そういえば、幼稚園の終わり頃だったか、その洋裁店のお宅からはエレクトーンをもらって私がしばらく使っていた。親族の中では珍しく私を「ちゃん付け」で呼んでいた。束縛抑圧攻撃をすることも無かった。怒られた記憶もほとんど無い。おそらく甘めだったのだと思う。世間でよく聞く嫁姑問題は無いというかむしろ真逆で、母親からは明らかに見下され疎んじられていた。階ごとに分かれた二世帯暮らしだったが、空間、生活は全く隔てられており、食事(冷蔵庫)も全く別だった(祖母が過ごす二階へは行くな、祖母の作るものを食べるなと言われていた)。

父親は大卒後の職業は不明。大学の囲碁サークルで母親と知り合ったらしい。おそらく私の幼少時は勤め人だったが、小学生時代に事業を始めようとした(そしておそらく失敗した)模様。あまり苦労をしたり勤勉に働いたりするというイメージは無い。後から考えれば祖母に甘やかされて育った放蕩息子という感じで、金銭感覚も緩く、ギャンブル(競馬)好きで大きな借金を私の幼少期から小学生時代に数回作り、それを母方が清算してきたらしい。

父親には独身の弟がおり、少し離れた場所にある戸建(祖母が与えたものか)で一人暮らしをしていた。が、洗濯物をまとめて持ってきて祖母が洗ったりしていた。

祖父の系譜は全くわからない。祖母は農家の家の出で、私が小学校の中学年の頃まで曽祖父が生きており、何度かその家まで行ったことがある。蔵や離れがあり、暗くだだっ広い座敷間の上に遺影がたくさん並んでいる(不気味)という、まさに田舎の家というイメージのところだった。

私が小学校中〜高学年の頃に父親が何度目かの大きな負債(おそらく競馬と事業失敗による)を抱えて、母方がもう限界となったらしい。小学校卒業後、離婚となった。それまで二世帯で住んでいた家は売り払い、父親と祖母はおじが住んでいた家へ移住、それ以外は母方の敷地内へ移住となった。
私は引っ越しをしたくなかった。そもそもそんなこと認めなくもなかったし、それまでの暮らしに(当時の認識としては後述の教育関係の抑圧等は除き)大きな不満は無く、友達とも楽しく過ごしていた。周りにも、引っ越しのことは全然伝えていなかった。だから私は突然、コミュニティーから消えた形になる。
移住後は一度だけ、祖母(おじ)宅へ行ったことがあった気がする。しかし、それ以降は接点も無く、連絡もとっていない。今、あちらが生きているのかどうかもわからない。

母方
祖父は明治生まれでおそらく工学系の大卒。戦争にも行っているはずだが外見的には大きな負傷などは見られなかった。職業は不明であるもののおそらく技師か何かで、その関係か、家にはWindows95等で一般にパソコンが普及するはるか前から、何台も歴代パソコンがあり、私は古いものを遊び道具にしていた。自分でプログラムを打ち込まないと動かない台やプログラミングの本がセットになって置いてあったり、カセットテープ?で記録をする台(当然単色時代)もあったりした。やっとカラーや絵的なものがついた時代のものは、当時としては大きな変化だとは思っていたけれど、Windows95が出たらやっぱり全然別物だと感じた。話を戻す。私が母方の環境に入れられた中学時代には既に定年退職後で、基本的に家で過ごしていたわけだが、料理等そこそこ家事も行い、高いところに登り庭木の剪定等も行なっていた。大工のようなこともできたらしく、家を建てた際には関わったのだろう(新築はおそらく大手のメーカーではなく地元の会社や職人を使って建てている)。庭にはかつて小屋だったというプレハブ?に工具がたくさん収納されている場所があり、おそらく身近な諸々の不具合はメンテしていたのだと思う。祖母とは異なり私に直接的な危害を加えてくることはなかったが、浴びせ続けられる暴言等を止めることも無かった。そのまま黙って見ていたのか、面倒な場面からは離れていったのか、もう覚えていない。

祖母は大正生まれで専業主婦。大学等に行きたかったようだが時代的に叶わなかったようで(女だから)、それが大学へ行った祖父や能力があるのに(良い学校・大学へ行けという)言うことを聞かない私への屈折した感情を起こしていたのではないかと思われる(自分の娘を苦しめた男の娘でありさらにそのかわいそうな娘と口をきかなくなったというのも大きい)。私からすれば一族内の中心(実質的な力を持つ者)は祖父というよりも祖母であり、子どもたち(私からすれば親世代)への影響もより大きいように見えたが、本人の認識では自分は祖父に抑圧されているとのことだった。祖父のことを、あんなこともこんなこともできる、素晴らしいと褒め称える一方で、自分は我慢をしている・させられていると愚痴不満を垂れ流してもいた。願掛け?のために確か牛肉や他の食材を断ったとのことで、自分はこんなに〜しているのにどうして…なのかという主張が多かった。特に私には、感謝をしない、かわいげがない、言うことをきかない、生意気だと繰り返した
それより上世代の系譜については不明であるものの、おそらく一族がまとまって暮らしていた一帯は祖母側の流れのものなのではないかと推測される。祖母の主張によれば、自分は何町もの土地を人に分け与えてきたとのこと。おそらく自身の持てる力?や素晴らしさを示そうとしていたのだろう(そして実際一族内ではそれが機能し称賛の反応が得られる)が、そのことにより家の所有が減れば自分に渡るものが減るだけなので何故それをありがたがらねばならないのかという感じで私は適当に流していた。そういう媚びないところも気に食わなかったのだろう。とにかく私は目の敵にされた

祖父母には三人の子どもがおり、上から男、女、女。母親は真ん中に当たる。加えて、祖父母は身寄りがなくなったはとこの親も育てたそうで、これらの家族が一族の主要メンバー。私の世代は私が一番上で、上から女、男(母親の子ども)、男、男(おばの子ども)。他にももしかしたら親戚?という家が近くに他にあったが、ほとんど行き来がなく詳細も不明。

おじは大卒後、おそらく企業に所属してはいない。英語の通訳をしていた、レイチャールズの通訳をしたことがある等と聞いたことはあるが、がんがん働いていたイメージは無い。独身で祖父母所有の賃貸物件(敷地内)に住んだり戸建新築後は祖父母宅の二階に住んだりしていた。何だかふらふらしている人というイメージで、一族の集まり(一族は食事やイベントごとなどで本当に頻繁に集まっていた)にもほとんど顔は出さず、食事も別でおそらくナッツを主食にしていた。アロエヨーグルトの流行でアロエが一般化する前からおそらく取り寄せたアロエジュースを飲んだりもしていた。苦くてあまりおいしいものではなかった気がする。私に対して危害を加えることは全くなく、母方の中では一番優しかった。時々ピザの出前をとってくれた。そういえば、おそらくネットワークビジネスに手を出していて、その関係で私は時々中高生にしては高価な化粧品(NUSKIN)をもらって使っていた。高校合格時にも高価な時計をもらった。余計な口出しをすることも全く無かったけれど、攻撃を止めることも無かった。おそらくその場にはいなかったし、いたとしても止める力(存在感)は一族内に無かったのではと思う。何となくあまり触れてはいけない感じの雰囲気だった。

母親は大卒後しばらく専業主婦。父親の大きな負債の何度目からかはパートで少し働き始めた。私の幼少期に子宮を全摘出している。弟には甘く私には厳しかった。私にはピアノの練習勉強、決めた学校への進学等を強要。できるようになればなるほど束縛や抑圧がより顕著になった。一方、弟へはそのようなものは向けられなかった。また、私が欲しがるものは買わず、弟には欲しいものを与え続けた。
私の小学校の終わり頃に父親の何度目かの大きな負債を理由に離婚と実家への出戻りの方向が決まり、私は中学で母方一族の環境へ移動となった。しかし私には友達もおり楽しく過ごしていた環境から引き剥がされることは極めて不本意だった。年齢的にも募った不満が態度や反抗に繋がり、以降、母親とは口をきかなくなった。
移動後は祖父母宅の新築で空いた同敷地内の古戸建に入ったが、母親は地元の企業に就職して不在がちだったため日々の食事は祖母宅で、祖母が作ったものを食べていた。その関係か、古屋のほうにはガスも引かず、入浴も祖母宅で、というように、祖母・宅に大きく依存した生活を送ることになった。母親からの抑圧や束縛はいつしか一族に広がり、特に祖母からは連日の罵倒という形に強化されて行われるようになった。

おばは大卒後、教員をしていたらしい。教員の男性と結婚し、専業主婦になりニ男をもうけた。配偶者は熱心な仏教系カルトの会員で勤め先も関連学校。結婚後しばらくは賃貸で暮らしていたが、私が小学生の頃だったかに祖父母宅から徒歩5分強くらいで、はとこの親の家(賃貸付き)やその他戸建の貸家が二軒くらいあった場所の隣に新築戸建を作り引っ越し。おばが元々カルトに入っていたのか結婚後に合わせたのかは不明。そう言えばいとこは習字の時間用に新聞を持参するので祖父母宅のものを持って行っていた。おば宅の仏間?には大きな仏壇やそのカルトの人の著作集が並んでいた。ある時、滞在中に義理のおじが帰宅し、ものすごい勢いで念仏?を唱え始めたことがあり、私は心底驚いた。あまりの気迫にはじめは冗談でそうしているのかと笑いかけたが、すぐにそうではない様子が伝わり笑いは引いた(いとこやおばにはもちろん普通のことだったらしく、無反応だった)。
移動後、食事など身近な家事以外のことは母親の代わりにおばが行う感じになっていた。おば宅とは相互に日常的に往来があったので、いとこ達と遊ぶことも多かった。

はとこの親(女)は身寄りがなくなり祖母に育てられたらしい。祖母宅から徒歩5分強くらいのところにある賃貸付きの戸建をおそらく与えられ住んでいた。確かバス運転手の男性と結婚し一男一女をもうけた。はとこはいずれもかなり年上で、私が中学生の頃にはいずれも結婚独立していたはずであまり交流が無かった。

祖母宅には毎日近隣に住むおば家族、時々はとこの親が集い、祖母を中心に食卓を囲み、とにかく群れていた。考えてみればいずれも男の配偶者の姿は稀で(おじも現れない)、女中心の世界という感じだった(話の中では祖父の存在感も薄かった)。
敷地内には建物としては私が入った古屋、アパート、新築した祖父母宅があり、庭のスペースは潤沢にあった。近隣の他の土地持ち同様、塀等ではなく樹木で敷地境界や目隠しが設けられ、庭にもたくさん木や生垣があった。食べられるものは栗、柿、柘榴、蜜柑、金柑等だったろうか。梅干しや梅酒を作っていたので梅もあったのかもしれない。古屋裏には大きな桜の木もあった。古屋の南側には芝生スペースがあった。その他、敷地内には謎の鉄棒(古くてこわいし運動が嫌いなので私は使わなかった)や謎の小山、使わなくなった井戸、かつての小屋その他物置等、色々なものがあった。
私が幼い頃にはニワトリやチャボがいた。メスの子が産んだ卵を食べていた。もっと昔にはヤギを飼っていたこともあると聞いた。私の知る限り生業としての農業を行なっている感じは無かったが、環境としては農家的だった。そういえば家庭菜園で夏野菜を中心に育てたりはしていた。
庭ではよく伐採した樹木等でよく焚き火、焼き芋をしたりバーベキューをしたりもしていた(外からは遠いものの、今の時勢だったらクレームものだろう)。このような時は屋内世界とは異なり、祖父が中心にいた。

一族からすれば母親を傷付けた男の娘であり、居場所を提供し面倒をみてやっているのに不機嫌で、数々のマウント話にもおべっかを使わずかわいげがない私は、祖母の視点から「問題児」である「悪い」と共有されていった。
さらに、高校受験で一族の指定した「学区首位の都立」を拒否し続け、紆余曲折あった後「他学区の首位」校(出願手続きに行くまでその存在すら知らなかった)へ入る羽目になり、入学後も全くやる気が出ず、むしろ積極的に勉強や大学進学を拒否するようになった私への攻撃はさらに強化されていった
高校時代には、「お前が悪い」「出て行け」「死んでしまえ」が日常化していた。直接それを言うのは祖母のみだったが、誰も咎めることは無かったし、あの世界の中では、現実がどうであろうと「私が悪い」"ことにされ"、私にとってそれは理不尽なことなので、違うと伝えるのだけれども、そうすればするほど、事態は悪化していった。どうにもならなかった。

母親は私の下にを生んだ(おそらくその後に子宮を摘出)。私には幼少期、特に幼稚園前と幼稚園年少組の頃の記憶がほとんど無いのだけれども、おそらくこの時期(出産、入院手術)に長期間母方祖父母宅に預けられていたのだと思われる。その後も、幼稚園時代の連絡ノートを見つけて読んだ感じからすると、年中以降にもちょくちょく欠席して母方へ行っていたらしい。それはおそらく父親の借金のことがあったときだと思う。
おそらくそのごたごたの関係で、は自律神経失調症になった。また、能力的にも諸々私より明らかに低く(高校は学区二番手に進学しちやほやされていた、私にはそんなこと許されなかった&ピアノも才能がなく専門コースへ進むことも長時間の練習も強要されていなかった)、「かわいそうで守るべき対象」として認識されるようになった(そういえば、いとこ二人も喘息持ちで、健康的に問題がないのは私だけだった。とはいえ私は過食で通院させられていたのだが)。
その非力でかわいそうなはずのは、年を経るにしたがって身体も大きく力も強くなり、さらに無条件に甘やかされ続けたせいで傲慢で危険な存在になっていった。私の高校時代には諸々が一番ひどく、私は登校前(朝)にシャワーを浴びてから出るのを日課にしていたものの、その時間をかぶせてきて奪うので(待たねばならず)遅刻が常習化したし(他にそもそもやる気が出なかったというのもあるけど)、その他、人目のない古屋の中で私は毎日物理的な切迫した脅威を感じ続けていた。しかしそのリスクを、いくら伝えても誰も認めなかった。そして高校の終わり頃にあった致命的な出来事ー私が家を飛び出した直接的な理由ーはこの男によるもので、それに対する一族の反応、それらによる絶望は、出来事と共に脳裏に焼き付き、今でも私を蝕んでいる。

私は高校時代後期は図書館をはじめとする外籠り状態だったが、この件の後、ますます家に寄り付かなくなり、紆余曲折を経て大学へ進学したのと同時に完全に家を出た。以降、奨学金申請等、手続き上どうしても行わざるを得ない場合以外に接触は無い(どうしても必然性がある際も書面を通して非対面のみ)。あちらから何か来てもこちらは相手をしない。そして修士修了後はそのような必然性も無くなった。勤め先も含め、とにかくこちらの情報が世に出たりしてあちらに気付かれることがないように留意して私は暮らしてきた。

中学以降に入った古屋は老朽化で傷みが激しくなり、高校後期にはガラスが割られたりしていたのもあったのか、私が家を出た後、庭の古屋と祖父母宅との間に母親の家が新築された。
私は進学先の関係で近場の賃貸(しかし一族の生活圏からは離れたところ)に住んできた。一族が密集しているエリアにはどうしても必然性がある時を除き近づくことがない。買い物などでもエリアや時間を変え、出会さないようにしてきた。それでもごく稀に遭遇してしまうことはあり、そうすると一気に吐き気と動悸がして激しく気持ち悪くなり、その後しばらくは調子を崩す。全く無害だったおじですら、不意に道で出会したりすると(よく辺りをふらふらしていたので)同じことが起きた。

祖父母は既に他界した。おそらく相続の関係で、ある時かつて庭だったところの中におそらく建て売りの戸建が何軒も、あとは駐車場が作られていたのに気付いた。敷地内の古アパートはおばが相続したのだろう、カルト宗教の政治ポスターが貼ってあった。
そしてごく最近、気付けば祖父母宅も取り壊されていた。おそらくおじが亡くなったのだろう。
建売の群れは土地を売却したのか、駐車場や取り壊された祖父母宅の土地、その他戸建賃貸等がどうな(ってい)るのかはわからない。私とは別の世界の話だから。

もしあの世界の中にいて、一族の意向やルールに背かず、おべっかをつかって生きてきたら、私も他の者と同じように、当然のごとく適期に自動的に土地が与えられ、ローンではなく現金で新築を建てて過ごしていたのだろう。

それを幸せを呼ぶのだろうか。おそらく一般的にはそうなのだろう。でもとにかく私は、そうはならなかったしなれなかった。から、独りで暮らしてきた。


Eating and sleeping(食と睡眠)
REALVOICE(ドキュメンタリー映画)
NO way out(出口が無い)
Poison(毒)
NO childhood(子ども期の欠落)
Struggles hard to be found(見えにくい困難)
Piano(ピアノ)
Too bad to be good (at) できることが苦痛
先生と文字と本と。
当たり前とは
文豪の病(理)とパンデミック、死。
If I could wish(もし願うのであれば)
NOTHING to write on the Star Festival day(短冊に書けることは何も無い)
高瀬舟
完全自殺マニュアル
Beasts(理性なき者)
日常
NEVER let me stay.
見えない世界
A wild bird
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機能不全家庭出身者と血、鬱ー"Poison blood" by Darren Hayes(ex Savage Garden)
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Rosso
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From middle of nowhere
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