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先生と文字と本と。

これまで何となくタイトルを英語でつけていたんだけど、「先生」を"teacher"にしてしまうとニュアンスが落ちるなと思い、日本語にしてみた。

「先生」は私が高1の時のクラス担任で現代文担当だった。ただ上から教え込むのではなく、先に生きてきた者として見つめ、それなりに差し伸べ突き放す人だった。

進学校なので入学直後から進路指導などが始まり、あれはホームルームの時間だったろうか、クラスで進路指導室へ行き、使い方や資料等の説明を受けた後の自由閲覧時間、皆、当然のように国立や早慶に行きたいと言っているのに馴染めず、私は申し訳程度に設けられている専門学校のラックで、申し訳程度に製菓の専門学校の冊子を眺めていた(実際専門学校へ行く気も無かった)。
先生はそんな私を見咎め、「あなたさ、はじめからそんなでどうするの?」と声をかけてきた。私はどう対応したんだろうか。覚えていないけれども、おそらくろくに言葉は返さず、きっと睨んだか微妙な表情をしていたのではないかと思う。先生はその先、何も言わなかった。

国立出身で、校内でも人気の大学を平気で「バカダ大学」等と言ってしまったりと、毒舌ながらも状況を見て言うべきことは忖度なく言う人という感じで、頼りにされていることも多い先生だった。映画やゴジラが好きで、有休をとって東京国際映画祭へ行ったり(そしてそのことをケロッとクラスで言う)ゴジラを授業で扱ったりと、今思えばなかなかに「既成の(あるべき)教師像」のようなものからも自由な人だった。(ちなみに都立は都教組が強く、今はわからないが私が在学していた頃には「ブランク」なる、教員が授業をしない時間、所謂ストライキがちょくちょくあった。有休映画祭等もそのような中だから可能だったのだろう。)

高校(通学)、勉強、受験、進学、全てに意義を見出せず、連日遅刻を繰り返し、ひたすら無気力な私に何かあると思ったのだろう。時折声をかけられる。しかし、私は人(特に大人、権力を持つ者)を信頼しないので口を割らない。
そんな中、次第に「文字」と「授業」を介した間接的コミュニケーションが始まっていった。

アクティブラーニングが持て囃されるようになった昨今とは異なり、教師によるone way講義がデフォルトの当時の公立進学校の中で、先生は珍しく、生徒をガンガン指名し答えさせる、黒板に書かせる時間を多く取る人だった。加えて、課題でも「書く」ものを出し、そして書かれたものを取り上げ授業内でコメントをしたりシェアしたりということもよく行う人だった。
私は授業内で指名され口頭で応答せざるを得ない場合には(注目されることも自身の考えを他に知られることも嫌だったので)適当に逸らしたりしてろくな回答をしなかった。けれども何故か、書くことに関しては(クラスに対しては匿名ということもあり)抵抗が少なく、わりとまともに対応をしていたように思う。
先生はよく私の書いたものを授業内で取り上げ印刷して配った。私はやはり、はじめは「この人にはいったいどんな意図があるのだろうか」「自分の何をどんな風に利用しようとしているのか」等と思って警戒していた。けれども、取り上げ方やコメント等を見て・聞いているうちに、「この人は、きちんと人(自分)の話を聞こうとしているんだ」と感じるようになった。そして少しずつ口も開くようになっていった。
あれは面談の時だったろうか。お決まりの進路について、私が大学へ行きたくない等と言うし、遅刻ばかりしていることもあっての話になったのだろう。その時何をどの程度話したのかはよく覚えていないけれど、完全に信じてはいないので、私としては差し障りのない部分のみを伝えたのではと思う。しかし、先生は一呼吸置いて「あなたさあ、それ、虐待だよ。」と言った。加えて、私が「私が悪い」「私が悪い」と繰り返していることも指摘された(当時の私はそれに気付いていなかった)。唖然とした。

勿論、「虐待」という言葉は知っていたし、自分のいる環境が自分にとっては好ましくないことを認識していた。けれども、いくら訴えても、あの世界の大人達には何の意味もなさず、むしろ状態は悪くなる一方だった。そしてそれも当然のことして受け止めざるを得ないというか、他の選択肢や環境を知り得なかったので、仕方がないと諦め、あの人たちが言うように「私が悪い」で収束させるしか、私には、ずっと、無かった。でも、そうではないと、初めて、外部から客観的に、自分の状況を見ようとする目を知った。

それでも信じていなかった。けれども時々話をするようになった。
2、3年は先生は別クラスの担任で授業も古文だったから面談や課題等でのコミュニケーションはほぼ無くなった。だから、職員室や図書室、進路指導室なんかで話をした。「大学には行きたくない」がお決まりの内容だった。

日が経つにつれ、の状況はますます悪化していっていた。大学進学、受験を拒否することによる「出て行け」「死んでしまえ」等の罵詈雑言に加え、ぶくぶく横暴さや暴力性を高めるの存在、そしてその危険さを一族が一向に認めようとしないことが私には常に切迫した脅威だった。でもそのことは先生にも言えなかった。

繰り返される不毛で理不尽な日々。

当時の記憶には色が無い。常に灰色。
どこかへ逃げたい、でもどこへも行けない。(私には自分で行動する術も無かった。中学で移住してきてからは、ほとんどをあの一族のテリトリー内で、あの一族と過ごさざるを得なかった。移動もほとんど車。当然、地理感もつかなかった。)

ある時、先生は帰りに一緒に地域の公立図書館へ連れていってくれた。中学で移住してきてからそれまで、私は公立図書館を使ったことが無かった。盲点だった。高校の生徒手帳で図書カードを作った。そうして私には学校外にも家から抜け出て行ける「居場所」ができた。

ある日、先生は突然漫画も貸してくれた(正直私は「漫画?」と思った)。『ポーの一族』。漫画だからという根拠のない先入観をばっちり裏切られ、圧倒されつつも残念ながらポーはあまり好みではなかったけど、萩尾望都さんの作品は公立図書館にも結構入っていたので、それからたくさん読んでハマった。『イグアナの娘』ってこの人の作品だったんだ、とか思ったり、『半身』なんかも好きだったな。他に竹宮惠子さんとか山岸凉子さんとかも色々読み始めて、私には「すること」もできた。

図書館(学校、公立)に行って色々借りて読んだり眺めて過ごしたりしているうちに、何故か純文学を読むようにもなった。かつてはあんなに(読め読め命令されて)嫌だったのに、ふと自分で棚から手にとって読んだ時には、ものすごく響いた。太宰、芥川、漱石が好きで、目につくものはとにかく読んだ。あとは学術書レベルではないけれど(学校図書館や公立図書館に置いてある程度の)心理学系、精神分析系の本もよく読んだ。

文字、本、外の世界と繋がれることによって、世界に少し色がついたような気がした。現実は何も変わらないけど、「違う世界」へ行く術を得たのは貴重だった。文字の世界は「今、ここ」を越える。連れ出してもらえて、先生には今でも感謝をしている。



就職した後に再会した先生に頂いたお酒の瓶
ずっと保管してあったんだけど、無償譲渡の場に持っていった。大切にしてもらえますように。

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