Too bad to be good (at) できることが苦痛

何かができるようになると自分を損なうことになる。人に利用されるようになる。
できること、気付かれてしまうこと、見られることがだんだん苦痛になっていった。

はじめは音楽。専門コースへ入れられたことで、ピアノが自分から離れていった。
学校では小学校中学年の頃だったろうか、音楽専科の先生に「君は絶対音感を持っているよね」と言われた(この先生には利用されることはなかった)。
私はそれを(絶対音感という言葉すらも)知らなかった。身につけようと思ったこともなかった。
昔あったヤマハのCM「♪ドレファソーラファミレド」のように、幼児教室で音階で歌ったり「♪ジャーン→ドミソ」「♪ジャーン→ドファラ」等、和音を聴き取る(私としては)遊びをしているうちに獲得したのだろう。(ちなみに、絶対音感については人によって幅があり、私は自分が音楽と認識するメロディーのあるものにしか音階を認識しない。だから雨音とか人の普段の話し声とかで頭がいっぱいになることは無い。けれども、歌については、音階で頭に入ってきてしまうので、メロディーが頭に馴染んで意識しなくてすむようになるまで歌詞を聞き取りづらい。)
音楽の道に進んだわけでもないし、絶対音感が日常で役に立ったことはほとんど無い。むしろ、音程のしっかりしていない歌や演奏を聞いていると極めて不快に感じる等、弊害のほうが多い。
高校の時には合唱コンクールでアカペラ曲を歌う時に、初めの音取りをピアノではなく私の声出しでしようかという話が出たりもした。しかし絶対音感を持たない声の大きい者が、それでずれることは本当に無いのか等と言い始め、勿論一般人が気付くような、例えば半音単位等の大きなずれはあるわけないのだが、逆に数ヘルツ単位等であれば、私も都度機械を使って検証等したことは無いし、そこまでの保証はできないと誠実に伝えたら、なんだ正確じゃないんじゃないか!となり、取りやめになった。そんな数ヘルツ単位のズレを感知できるレベルの耳を持つ者がどれだけいることか。求める能力についての知見も持たず、こちらが伝えたことの意味を理解もできないような者のために力を提供することはしまいと、この時思った。

遡って小学校の時。私はクラリネットが吹きたくてはじめは吹奏楽部に入った。そうしてまだ仮入部期間で楽器も触れない間に歌の試験があった。すると担任が(授業時間中であるにもかかわらず)クラスの授業を中断し、私を連れ出し、合唱部顧問が担任しているクラスまで連れて行き、ガラリとドアを開け、いきなり「この子は合唱部に入れるべきだ」と話し始めた。皆唖然である。記憶はそこで途切れているが、その後私は合唱部へ移籍となった(そう言えば吹奏楽部の顧問は絶対音感に気付いた音楽専科の先生だった)。
合唱部は強豪校で練習も多く、歌うことはまあ良かったんだけど、コンクール前は特に大変だった。普段から朝練、放課後練は当たり前で、夏休み中は冷房もない体育館で延々と歌わされていた。(音が取れるせいで)顧問の意向でいきなりパートを変えられたりして(ソプラノ、メゾ、アルトの全部を経験した)、当時の私は楽しく主旋律を歌いたかったのに、対旋律やハーモニーばっかりになってつまらないと感じたりもしていた。音域とは?適性とは?と、ムカついたので、発声練習の時に(伴奏していたので)おもいきり高いところ、低いところまで引っ張って抵抗(?)した。性格悪いね(巻き込んだ皆さんごめんなさい)。

勉強もだった。幼稚園〜小学校低学年まではわりと(本人としては)呑気に過ごしていたので、苦労をすることはなかったけど、そこまで抜きん出てということは無かったと思う。学級委員をしたりもしたけどお転婆だったし、勉強イメージの優等生という感じではなかったはず。
それが、四年生になった時の担任(上記の歌テストで私を連れ出した教員)が家庭学習なる宿題を出す人で、それは一律の課題ではなく「各自がそれぞれのペースで1時間」取り組んだものを提出せよというものだった。それで私は初回、適当に1時間、ドリルか何かをやって出したんだけど、そうしたら怒られた。私にはこれでは足りない。もっとできたはずだと。私は言われた通りに1時間宿題をして出したのに何故怒られなければならないのかと不服だった。けれども、また怒られるのは嫌なので、次は量を増やして提出した。すると担任は満足そうだった。では母親が中学入試用の問題集を買い揃え始めた。そうして私は受験などしないのに日々入試問題を解く羽目になった(中学入試の問題ってなかなかよくできていて、実はちょっと面白かったりもしたんだけど、やらされているというのが嫌だった)。
中学が近くなると、母親は英語の先取りをさせようとし始めた。この頃にはピアノもごちゃごちゃだったし、他にもカルシウム剤を飲めとか色々命令されていたんだけれども、私は怒って全部拒否。英語は本当に中学で授業が始まったのと同時に0スタートだった。当然英語教室へ通っている等していた周りとは大きく差がついていた。けれどもそれで何が悪いくらいに思っていた。

中学は大人の勝手でそれまで友達と過ごしていた環境から引き剥がされ、周りは既に関係が出来上がっている集団の中に押し入れられた。もう既に色々なことに期待をしないようになっていたし、心の中は荒んでいたけれどそれを外へ出すことはなく粛々と学習をこなした(友達もあえて作ろうとは思わず、部活を中心に、狭い範囲内で最低限という感じで過ごしていた)。
テストの点数が良い場合に小遣いが追加されることになったので、望みもしないのに世話をしてやっていると恩を着せられ、言うことを聞かない、生意気で可愛げがないと毎日言われ続ける環境から逃れる資金を貯めるため、勉強し、結果を出すようになった。成績は上がり、私は小学校の時とは打って変わって物静かな優等生となった(期待をせず何も言わないだけ)。
しかしそうすると、こちらが考え始めもしないうちから一族に勝手に進学先を指定されるようになった。学区首位の都立。(中学で移住した)私は地域の様子も高校のことも当然わからない、イメージも湧かない。でも、強制が嫌だから、首位高は嫌で二番手へ行くと主張した。しかし一切顧みられなかった。嫌だと言えば言うほど圧力も日々の嫌味も強くなった。そうなればなるほど、私はますます嫌になった。受験も、あの環境も。
そして都立出願の日。私は2番手の学校へ願書を出した。けれども(もはや詳細な記憶が無いのだが)、なんやかやあって取り下げ手続きをすることなった。その後、私が再出願で訪問した(覚えていないが多分連れて行かれた)のは、それまで存在すら知らなかった、他学区の首位高だった。

出願で初めて存在を知った高校へ合格した私はもう全てにやる気を失っていた。学校へ行く気などとても出なかった。入学式へ出る気も起きず、初日からタクシーに押し込められての遅刻である。その後も(に朝のシャワーを妨害されることもあり)遅刻の常習魔だったし、授業も上の空、テスト勉強も放棄、部活にも入らず、と、見事な学習性無気力を発揮し、ただただ無益な日々を送るのみだった。選抜を経た進学校内でのその状態である。知識の積み上げに影響されにくい現代文、中学時代に既に準2級を取得していて貯金があった英語、そして音楽以外は、みるみるうちに成績が下がっていった。
しかし一族からの拘束はより強くなっていった。今度は国立へ行けと連日言われるようになり、もう嫌だ、大学にも行かないと言うと罵倒された。それなら、どうしても大学へ行けと言うなら、近くのX大学なら(別に行きたいわけじゃないけど勉強しなくても入れるし)と言うと「そんな馬鹿な大学へ行くと言うのなら出て行け」と言われた(この頃には「嫌なら出て行け」「死んでしまえ」「お前が悪い」が日常になっていた)。かたや無条件で甘やかされ放題でぶくぶく傲慢になった弟の前で、しかもそれに連日脅し嫌がらせを受けながら、である。

地獄でしかなかった
「お前が悪い」という呪い、そして染み込んだ「自分が悪い」が自らを蝕んでいく。
他による自己否定、自らによる自己否定。
できることも、できないこともだめ。
出口がない、どこにも行けない、全てが行き止まりで袋小路

どうして自分はこうなるんだ、おかしい、理不尽だという思いがありながらも、私が悪い、全て無駄なんだと収束させるしかない現状。圧倒的な無力感。

できる私が悪い。できない私が悪い。

私が悪いとあの人達は言う。
私が悪い?私が悪い。

そんな中、「先生」とのやり取りが始まっていった。

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自分としては、大学の健全な環境内で自由に学ぶことができたことで、「できることコンプレックス」やそれに付随する抑圧の日々に関してはだいぶ解消していけていたのかなと思っていたんだけれども、↑を書くのは結構しんどく、時間がかかったわりにうまくまとめられなかったことからも、消化などできていなかったのかもしれないと気付いた。
やはり、特に中高時代の、避けられない中、連日強い攻撃を浴び続けた・いくら訴えても聞く耳を持たれなかったこと(個人としての意志、危険な存在)は、しっかり爪痕を残していたんだろう。
そして、この環境とパンデミックの類似性こそが、ここ3年私を追い込み、息をできなくさせ、退職へ追い込んだ元凶なのだ。

私は逃げきれなかった。

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