文豪の病(理)とパンデミック、死。

私は大学入学前、近代純文学を読み漁っていた。小説で好きだったのは太宰治、芥川龍之介、夏目漱石(苦手だったのは三島、鴎外。志向がわかりやすい 笑)。韻文だと中原中也や萩原朔太郎などが好きだった。

当時、不思議だったのは、どうしてあの時代の作家達は短命で、特に自殺が多いんだろうということだった。勿論、今とは平均寿命も医療技術も違うので、一概に比較はできないのだけれども、それにしてもあまりに早過ぎる人が多いという印象を持っていた。結核が身近でサナトリウムが描かれる作品なんかもあるし、正岡子規の壮絶な闘病についても色々言われている。漠然と、今よりも病や死との距離が近かったのかなとは思っていた。

しかし、この3年で気付いたのは、あの時代、スペイン風邪の流行も起きていて、その影響もあったのではないかということだ。実際、芥川なんかも感染していて、結構しんどい状況だったらしい。

近代純文学の文豪の多くは古いの出身で(その影響もあり)高学歴、加えて、私が特に気に入っていた作家は家や肉親との苦難や葛藤、自己の不安定さや揺らぎ、そして「神経衰弱」と称されたりした精神・心理的病理を抱えていた。

大地にしっかり根が下りておらず、自身の存在に不安を抱え根幹が揺らいでいる「生」がぐらつきふらついている人間にとって、常に「死」あるいは「死へ導くもの」の存在に晒され続ける、その気配のようなものを感じ続けることは非常に堪えると、この3年の自身の体感からも痛感した。
そしてそれに気付いた時に、あの時代のあの層、特に文豪達があまりに早く去っていく、例えば芥川の言う「ぼんやりとした不安」の背景のようなものもストンと腑に落ちた気がした。

私は作家ではないけれど、この3年ずっときつかった。そしてむしろ武漢株やデルタ株等、致死性の高い時期よりも今(に至る、オミクロン株の蔓延に対して世界が対策を放棄した時期)のほうが非常にしんどい。これが世間一般との致命的な差であろう。そしてその差は埋まることがない。さらに理解もされない。だからもう働くことも、続けていくこともできなくなった

感染してすぐに終われるのならいい。でも、ぐずぐず続くかもしれないし続かないかもしれない、発症するかもしれないししないかもしれない、治る可能性はあるけど治らない可能性もある後遺症、あるいは今は見えていない晩発性の問題への懸念を抱えながら、どんなに避けようとしても避けきれないリスクを、感染直後の症状しか見ずにそれが(自分にとって)軽症なら問題ない、特に人に移すことなんか気にしない(他人のために自分が我慢をするなんて有り得ない)というノーマスク・ノーガード達に、無配慮にあるいは悪意を持って突きつけられ続けることが、本当に、最悪だ。

長期間、避けられない暴力に、理不尽に晒され続けるーこれは、大学へ入る前の私の状況そのもので、だからこそ現状が当時の苦痛をも引き戻す。ノーマスク刃物の記憶をも呼び起こす。そして息ができなくなる

陽性者に移す気があろうとなかろうと、その人間がウイルスを暴露し、相手のウイルス接触が閾値を超えれば(これがよくわかっていないところも非常に気持ち悪い)、感染は連鎖していく。
「感染」したくない、感染していない者にとって、必要なのはワクチンではなくマスクである。それも自分ではなく(自分でマスクをすることにも多少の防御効果はあるけれども決して充分ではない)、対面する相手のマスクである。
マスクは感染者が感染を広げないためのものである。しかし他人を守ることによって自分も守られるという利他的アプローチを、新自由主義に汚染された精神は理解し得ないし、何より歪な形で新自由主義に染まりきった、公助を徹底的に切り捨てた国が先導してノーマスク推進プロパガンダを行なっている現状、リスクばかりが高まっていく。

無防備に大丈夫だなんて思えない。根拠もない。保証もない。

大丈夫なことなんて一度も無かった。

息ができない。息、が

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