マスク信者?

案の定、体制側の議員から発せられた言葉だが(野党ぶっている極右政党のほうかとも思ったけど)、さすがだと思う。
自分の権利だけ声高に主張し他人に関しては全て「自己責任」で突き放し踏み潰す、新自由主義の中の歪んだ/身勝手な権利感
マスクは「自己判断」とされているのにノーガードノーマスク派は「マスクを外せ」としつこく激しく主張し続ける。「個人の自由」であるなら、マスクをつけることだって自由なのではないか。同調圧力を嫌っていたはずなのに、何故「マスクを外そう」と群れて主張し続けるのか。

「自分が」マスクを「したくない」だけの、つまり、個々が他への感染拡大を抑止するという理性的な行動を軽視し、自身の欲求のみのために社会的行動を断固拒否する輩は、自分と同じように他人にも権利があるという視点を致命的に欠いている。

私は公共の場では常にマスクをするし、ノーマスクの人間は極めて危険なので避けているけれど、「マスク信者」ではない。
マスクは飛沫感染の抑止に有効(ただし自分がつけただけでは効果は限定的、有効性が高いのは感染者からの他への感染を防ぐこと)、マスクでは空気感染は防げないという科学的知見をふまえて、まずは社会的な感染拡大予防のため、そして極めて限定的ではあるけれど、ワクチンよりは遥かに弊害が少なく効果がある自身の感染リスク低減のために、マスクをつけている。

ノーガードノーマスク勢はマスクでは空気感染は防げないからマスクに意味がないという短絡的な思考しか持ち得ないようだが、空気感染よりもウイルス含有量が高い飛沫感染のほうが明らかに短時間での感染リスクが上がるのだから、社会活動・生活の維持のために負担の少ない対策をするのは非常に生産的なことである。
空気感染対策は、究極的には感染者がいる閉鎖空間に共存しないことでしかなし得ず、換気によって空気を循環させウイルス含有濃度を下げること、また、空気に弱いウイルス特性から、ウイルスの不活化を待つことでリスクを下げることはある程度可能ではあるが、自身で環境をコントロールできない公共の場では対策不可能に近い。だから私は退職を余儀なくされた。

私はマスクの限界を認識した上で、感染対策としては、危険な人間(ノーマスク)を徹底的に避ける(見かけたら離れる、飛沫が飛ばされる方向から顔を離す、近づいてきたら息を止める、ノーマスクが集まるような場所には行かない)ことにしている。
買い出し時にも、店員がノーマスク/客層の悪い店(激安店など)を避ける、決まったもの/ところでだけ、短時間で済ませる(吸引するウイルス積算量を抑え閾値を超さないようにするため)を徹底している。

たとえマスクをしたとしても、感染対策をする気のない、自分だけ大事な5類脳をはじめとするノーガードノーマスクに、感染対策をしている者までもが「感染させられる」から、延々と収束が見込めず、全てにおいての生産性が低いままになっている。

適切に感染対策をした上で、社会を回していくことこそが、たとえコロナが無かったとしても沈みゆく泥舟国家のせめてもの維持に必要なことであるはずなのに、国を愛すると主張する勢力は国を崩壊させることしかせず、身を切る等と主張する勢力は他人の身だけ切り蹴落として自身はぬくぬく利権にまみれ好き勝手をし続ける。

実に美しい国ですこと。まったく、涙が出るくらいに。
滅びの美学?否、この国の現状は美学にはあまりにも程遠い。暴力的、排外主義的で加害欲だらけ、歪んだ私利私欲まみれの強者だけに優しい権力利権中抜き吸い上げワールドだから。

互いに少しずつ譲り合って思い合って、それこそ雨の日に通り過ぎる時に傘を傾けるような感じで社会を回せばいいのに。日本の美しさって、そういうことじゃなかったの?
気付けばわざわざ傘を横に持って振り回しながら尖端部を後続人に突き刺すように歩く人間が増えたけど、今の社会とそっくり。物騒な事件、Z世代の犯罪も社会の縮図。彼らはミクスの時代に第一次政権時に変えられた教育制度の中で育った果実。見事に実っている。

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