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元所属や法人におけるパワハラとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。


去年の明日、私はそれまでのSanctuaryを失った。気付けば人生の半分以上を過ごしてきた場だった。

退職自体は大して心的損傷を起こさなかった。理不尽な人間や組織が理不尽なことを行うのは不適切だが当然のことであり、理の無い相手に何をしようと全て無駄なのだから。加害を逃れる、身を守るためには離れるしかない。

全てを打ち砕いたのは、かつての自分を癒し救ったはずの、個、多様性、人権を尊重し、理不尽や暴力にNOを表明し、様々な違いや問題にも論理や客観的根拠による論証、理性や教養で向き合い、共生を模索していくはずの環境で設置されたよりによって「人権委員会」が、理不尽にも暴力にも目を瞑り、申立の焦点を積極的にずらし、取り上げた「時間割」の問題についても何の検証も論拠もなく「不合理はない」と結論付け、ペラ紙一枚にも満たない通知で全てを片付け加えて、そのように「人権委員会」が対応を回避した「パワハラ」を法人が「離職理由」に利用したことだった。

そもそも「非常勤講師」の分際で「人権」を求めるなど言語道断、「無期転換」していたとしても所詮「使い捨て人材」に過ぎず、取るに足らない存在であると、非常に分かりやすく示していただいた。
入り口の時点で既に終わっていたのだ。専任・常勤テニュアでない、「仲間」でない、「自分達が雇ってやっている」存在(駒)が権利を求めることなど、あり得ないということだろう。

その後の再申立ても、全く同じように「逸らす」「かわす」で、文書すら一枚も出ずに終わった。「被害」を認めることも、認めないにせよ合理的な検証および説明をすることも、「補償」も、全て無し。一貫した「無視」が(直接的に関わった人事部や監査担当の方でも大学でもなく)「法人」の対応だった。「対話」はどこにあったのだろうか。こちらは何度も、それを望んだ(後日公開される申立書参照)。

あの一族も、元所属も、法人対応も、皆一緒だった。「私が私である」だけで既に"THE END".
客観的な事実も根拠も通用しない「である」の世界、の、救いのなさ、絶望が再び焼き付いた。
何をしても無駄なのだ。だったら全て、やめるしかない。それが「合理的」なのだろうから。

もしCovid-19が無かったら、私の所属科の位置付けや非常勤に対する眼差しに思うことはあったにせよ、重度のアダルトチルドレンよろしくで覆い隠して、私はそのまま、それなりに楽しく仕事を続けていただろう(実際、コロナ以前はそれなりに楽しくやっていたのだ、専任との関係も悪くはなかったし、毎日ずっと研究室であれこれしゃべりながら過ごしていた)。

もし虐待を受けていなかったら、また特に生死に関わる(刃物襲撃の)体験が無かったら、Covid-19を感染させてくるリスクを突きつけてくる人間やそれを避けられない環境にここまで恐怖を感じることもなく、ノーマスクで刃物のフラッシュバックを起こすこともなかっただろう。そうであれば、業務を継続できただろう。
学校はもとより感染リスクの高い場なんだ。だからこそ、きちんと感染対策をして、Studentsの学びを保証しなければいけないのに、「万全の対策」を主張しながら(緊急事態宣言が出ているような時期から)平気でノーマスク、無換気を貫ける不誠実欺瞞は到底理解できないけれども。きちんと合理的な対策をすれば、0にはならなくても確実にリスクは下げられるのに。学びも健康も維持できるのに。


もし人権委員会が機能して不本意な退職不合理な時間割設定を解消できていれば、「終わり」を決意することは無かっただろう。
たとえ退職を食い止められなかったとしても、そこに至らしめた理不尽や暴力を人権委員会が受け止め、対応を行おうと動けば、「絶望」とともに「終わり」へ邁進することも無かっただろう。

私はSanctuaryがあり、自分が生きる理由となし得ることがある限り、その手段は採らずに済むように、ありとあらゆる手を尽くして自分を繋ぎ止めてきたのだ。しかし、そのストッパーが、全て、退職人権委員会で消失した。

それでもCovid-19が(5類にしたから無くなった等という根拠もないご都合レベルではなく、実際の感染や特に後遺症リスクが)無くなり、人間や環境に怯えずに済むようになっていれば、私はまた何か適当な職でも探し、ライブや旅や食べ歩きや、新しく出会った友達、ギターと一緒に、何とか歩んでいこうとしただろう。
私は私の手懐け方を知っている。もう人生の半分以上、こうして独りでやってきたんだ(そしてその期間の残り1年を除く全てを私はキャンパスで過ごした)。

あるいは、せめて職場でのユニバーサルマスクが維持されていれば、
流行っているのが感染させられたくない者がきちんと対策すれば感染を免れられる(飛沫感染空気感染しない)AIDSであったら、、

でも、これらは全て、起こらなかった。

パンデミックは(風邪派のQ達には終わったことになっているけど)より深刻化し、さらに麻疹をはじめとする厄介な旧感染症と共にマルチデミックへ移行しようとしている。一方でノーガード化には拍車がかかり、危険な人間が我が物顔で微塵の罪悪感を感じることもなくウイルスやリスクを振り撒き続けられる構造が強固にできあがってしまった。

この状況で生きる理由もなし得ることも成立することはありえない。
絶望が解消して、Sanctuaryが戻ることしか、方法は無かったんだよ。
でも、逸らしてかわして「処理」された。ペラ紙たった一枚で

自己責任で辞めさせていただいた人間が、しっかり自己責任させていただくだけのこと。
元々殺されかけている、大学へ入っていなければそのまま10代で終わっていたであろう人間が、手違いで生き延びてしまったその間違いが、元に戻るだけのこと。

大学に入ってしまったのが間違いだった。
人権なんて、望んでしまって、あるはずだって思ってしまったのが間違いだった。
生きてきてしまったことと、そもそも(自分で望んだだけではないけど)生まれてきてしまったのが間違いだった。

だから、間違いを、解消する。

そう言えば麻疹はね、おそらく既に実質定点観測化しているんだと思うよ。
エティハドクラスターは、兵庫と岐阜に感染者が出ているけど報じられなかった。

おそらくカムフロムアウェイ観劇とBUMPライブの件で保健所が追いきれないし、対策を呼びかけるにも「マスク」は絶対言いたくないし「ワクチン」は供給不能状態だから、批判をかわすためにも、「見ない」「見せない」でいく「ことにした」んだろうと推測している。放射能もコロナも、みんな一緒。

それで今日またしれっとこれまでの分をまとめて発表するんだろうと思うけど、先週までのデータがまた興味深いんだなこれが。

20件の感染のうち5件(25%)が修飾麻疹修飾麻疹は症状が軽く発疹も部分的にしか出なかったりするから、患者が病院へ行き検査をして医師が麻疹と判断(→遺伝子検査)するか、保健所要請で遺伝子検査をするかしないとまず拾えないんだけど、今の状態だと両方とも成立しづらくなっている。「ただの風邪」は軽視放置され病院にかからないことが標準化したし、病院も病院で「麻疹」を見たことのあるきちんと気付ける医師が少ない(BUMPライブの男性も麻疹と診断されるまでに3つの病院にかかっている)、おまけに保健所はクラスターリスクのあるイベントへの参加者に事前にアプローチができない(対象が広すぎるから)ときた。コロナと全く一緒で、実情がつかめないままに市中感染が繰り返されることになる、というか既になっているだろう。
麻疹は潜伏期間が長いし、特に修飾麻疹はもっと長かったりするから、新年度、直近の抗体価が確実な人以外はお気を付けて。

ちなみにこんな実態もある。

大事なのは「世代」でも「接種回数」でも「過去の抗体価」でもなく「現在の抗体価」。名古屋の麻疹姉妹は20代(おそらく大学生)なのに接種0回だったし、たとえ2回接種していたとしても元々抗体がつかない人が数%出る上に、抗体価は年々下がっていく。加えて、コロナ感染によって免疫が破壊されていると、値はさらに落ちる。

再び先週までのデータ。20件のうち4件(20%)、2回接種なのに貫通している。1回接種も4件だから、過去にワクチンを打ったことがある人の感染例が40%だということになる。まだサンプル数が少ないっていうのはあるけど、私の謎感覚は、過去の接種回数だけで自分は大丈夫なつもりでいる人間がこの先多数感染していくだろうと予測している(メディアは「ワクチン2回、この道しかない」状態で「空気感染する麻疹をマスクでは防げません」だから、抗体価を見ずに回数だけで満足してノーガードする人間が増える)。そのうちの多くは修飾麻疹の軽症になるだろうけど。そしてこの軽症→「ただの風邪」ムーブ、感染者捕捉不可&ノーガードの無策が未接種層とワクチンが打てない0歳児をさらっていくことだろう。修飾麻疹であっても感染能力を持つわけだけど、そんなことを気にする人間は、この美しき社会ではマイノリティーだから。そして政権メディアの執拗な「マスクは悪」「ノーマスク」「ノーガード」推進はカルトとの関連で起きていることだから。

加えて年齢層。20代が50%。この意味をきちんと考えておいたほうがいいと思うけどね。高校卒業後、主として一人暮らしで結婚前の、体力があり自分で自由にできる時間とお金で活発に移動し人混みに出て行く「若者」が、感染拡大のハブになる。だから大学と、この時期は特に(卒業旅行、卒業関連の集会飲み会後の)新卒を受け入れる職場で、GW頃までに感染が広がる(入学式入社式や歓迎会も皆の楽しみだよね)。

見えないものは無いことになってしまう「お気持ち」社会では理解されることなどないだろうけれども。
勿論そうならないに越したことはないけども、果たしてどうなることでしょう。


江原遥先生はご所属が学芸大学。
このやり口は「である」の世界あるある。
カルトに限らず、「である」の世界はこう。行政部の文書をお楽しみに。
学芸大学なのによくこういられるなとずっと不思議に思っていたんだけど、以前のツイート↓でそういうことだったのかと腑に落ちた。
「高額医療制度がなければこの年まで生きられなかった」
弱者の視点を持ち、強者のご都合や周りに迎合することなく、(おそらくご自身の困難を多くするだろうに)発信を続けていらっしゃる方だった。


強者の強者による強者のための社会。弱者は切り捨て、自己責任にすることが当たり前。都合の悪いことは見ない、見せない、認めない、検証しない、向き合わないことが解決。
致命的なのは、そんな風に「処理」されている大衆が、嬉々としてそのご都合に乗り、踊り続けていること。

他人に平気で「命定め」させたり、感染や後遺症のリスクを突きつけ続けることが正当化されたりする社会、組織、人間って、本当にそれが正常なの?


感染対策できる人は、今できることはコロナの対策と一緒だから、きちんとマスクをして、ノーマスクの人間からは離れ、少しでも特に同じ閉鎖空間にいる時間を減らして、完璧ではなくても、ウイルス曝露量を減らすことを心がけて。
空気感染するウイルスへの感染を、マスクが完璧に防ぐことはできないけど、コロナも麻疹溶連菌インフルその他も飛沫感染が起きるもので、飛沫に関してはマスクがだいぶブロックしてくれるし、マスクして飛沫を撒き散らさない人間が多い空間では、飛沫核になって浮遊し空気感染を起こすウイルスの量も少なくなるから、マスクには空気感染対策の面でも意味があると言える。

空気感染するウイルスにマスクは不要なんて、極めてナンセンスなプロパガンダに乗せられないで、冷静に物理とデータと論理で判断して、合理的な対応が行える人
が、いれば、どれだけよかったかと、今は思うだけ。

4月からも生きる人は、気を付けて。そして、生きて。生きたかったら。



満月。今までありがとう。


From middle of nowhere
2020〜2021年度の概要
References in AY2020
References in AY2021
2022年度の概要
References in AY2022
2023年度の時間割について(行政部文書と返答)
人権委員会申立書

Let's get fair. (元所属について良い点と向いている層)
不合理ではないの不合理ー専門性全否定の行先
法人対応について(広報と実情の乖離)

チームとは何か
「合理」とは何か
人権委員会不受理後

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