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Guitar1022(練習開始3ヶ月)

ギターを始めてから3ヶ月経った。この間わかったのは私はあまりギターへの適性が高くないという残念なことなんだけど、それでも私はギターは好きだし、下手でも自分のエレジーとレクイエムを自分で歌って旅立たなければならないから、練習は続けている。
肺のほうは、もう先生のところへ行ったり先輩へ会ったりその関連で電話したりということもなくなったので、生活はほぼ無発声期間なんだけど、ダレンやCoccoの曲を中心にギターと歌い続けてきたおかげで、8月ごろには全く出なくなっていた低音部が少しすつ回復してきている。息が続かないのは今もそうなんだけど、その程度も前よりはましになったかな。

そんなわけで、何がなんでも"I knew I loved you"を歌いたくないっていうわけではないんだけど、やっぱり私はだと思い出したので今回の「その日の歌」はCoccoの"ひばり"になった。

「寂しい夜を知っている」「悲しい朝を知っている」から「私はあなたを置いていかない」し「あなたをひとりで行かせはしない」と歌う曲。とても優しく、とてもCoccoらしい。
ここでの「目を閉じてしまいそう」なのが「私」なのか「あなた」なのかはちょっとわからないけれども、「どうか どうかここにいて」と相手の存在を懇願し、「あなたが歌う歌が聞こえる」と共に、世界を諦められないと述べられる。相手に対しては「抱かせておくれ」とも言われている。

私の場合にはこうなるだろう。「寂しい夜を知っている」し「悲しい朝を知っている」から、「私はあなたを置いてでも独りで行く」し「あなたがひとりで行きたいと思うのなら、それは私には寂しいことだけれど(どうか どうかここにいてという思いは妨げになるから押さえて)受け入れる」。
「抱かせておくれ」の方向の発想はあまり出ないかな。Coccoならそういう風に気持ちが外に向いていくような時でも、私は「こっちへ来ないで」となるし、実際に全力で逃げている。「撃ち殺す」「ぶっ殺す」も無くて、「銃なんて持ちたくも関わりたくもない」「私が消える」になる(そしておそらくこの中間あたりにいるのがダレン)。

多分この部分は愛された体験や記憶の差が産み出すものなんだと思う。Coccoは昔は本人が語る情報も限られていたし憶測で色々なことを言う人も色々いて、私も「荊」の歌詞を読んで「これは、、」と思ったりもしていたんだけど、近年の本人の話からすれば、機能不全家庭的な部分はあったとしても、きちんと(しかも南国的な深く激しい感じの愛で?)愛された記憶と共に生きてきている人だということがわかる。
だからそこが、例えば10年前位までの、どんなに危なっかしく見える時であっても、たとえ表舞台で姿を見られることはなくなったとしても、この人は自死することはないだろうと私が感じていた根幹であり、彼女の深く広い愛や慈しみの源泉なのだと思う。
ダレンも父親がアル中暴力、母親がうつ家系の機能不全家庭で、夜に怯えながら過ごしていたようだけど、"Two beds and a coffee machine"など母親をモデルにしたであろう曲を書いていることからも、母親との愛着関係はある程度は築けている。そしてだからこそはじめは女性と、その後は(おそらく混沌の時期を経て)現在の男性パートナーと結婚した。
私は無い。幼少期はの出産や母親の手術で、母方への移住後は仕事で、物理的に母親は不在だったし、ピアノや学業への強制と抑圧、移住への不満などから母親とは中学以降口をきいていない。

前々回、母方一族の中で私は毛色が違ったのだろうと書いて気付いたんだけれども、もしかしたら私は、権力者(資産を持つ祖母)の娘であり「内」のメンバーである母親を苦しめ何度もギャンブルによる大きな借金返済という無駄金を使わせた一族の敵である男(父親)の子どもであるというだけでなく、私には父方の形質が見えやすく出ている部分があって、そこがますます癪に触っていたという可能性がある。
生きているのか死んでいるのかすら知らない父親は、勤勉さからは程遠い、まちもに勉強などすることなく適当に母親と同じ大学に入った人間らしい。そして父親当人には出なかったけれども隔世遺伝で私に出現した音楽系の特質、これに母方は真っ先に目をつけた。
母方はどちらかというと(ちょっとアウトローな叔父以外は)真面目にコツコツタイプで、適当にふらふらしているように見えて結果が出てしまうことは許し難く、それでその結果が出ているなら真面目に取り組めばもっと良い結果が出せるはずで当然そうすべきだという思考になるのだと思う。それがピアノでも学業進路選択でも出て、強い抑圧とそこから逃れようとする私への報復を生んだ(それにはおそらく父親に対しての鬱憤も乗っていた)。
あとはやはり「御恩と奉公」の封建的価値観(権力者の言うことを聞かずに逆らう異端者には報復が当然)、家父長制的価値観(女より男が優先)と共に固定化した「幼少期から苦労が多く自律神経失調症になったか弱い、かわいそうな(能力は一般レベル)」それに対しての「女のくせに難なく自分達ができない音楽や学業でも成果を出し、そのくせに言うことを聞かない、(父親と離婚し)かわいそうな母親(権力者の娘)とは口をきこうともしないへそ曲がりで可愛げがない反乱因子、しかも健康体」という歪んだ設定、残りは全て思考停止で(一族の敵、父親の子どもであるという点は全く同じなのに)「にはひたすら甘く無条件に甘やかす」一方「全ては私のせいだとして私を攻撃し否定し続け」決して事実を見ようとしない体制が強固に出来上がっていたのだろう。おそらくに向けられる分の悪意も私に乗っていたのではと思う。
そして、ぶくぶく攻撃性と傲慢さを肥えさせた「か弱くかわいそうな」はずのが「敵の娘でありかつ本人も敵」認定された私に襲いかかり刃物を突きつけたとして、事実すら認めないしそのくせそんなの当然のこと、悪いのは全て私、

って、そんなことある?

どう考えても理不尽だ。でも「である」の世界とはそういうもの。理性も論理も成立しない。絶望しかない。
しかし私は外の世界へ出られて、全く別の生活をしてきたし、あの人達と同じような理不尽や悪意を人に向けることのないようにと考えられるから、安全が脅かされない限りは、それらは過去のこと、だった。

けれどももう、安全が脅かされないこともないし、私のsanctuaryも無くなってしまった。

私は世界を諦めているし、ひとりで行く。解放は自由。ゼロはマイナスよりプラス。

金木犀も落ちてしまった。今年も残りわずかだね。


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