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Guitar1020

今回の「今日の歌」はThe Alan Parsons Projectの"Don't answer me"。先日、の「遠くで汽笛を聞きながら」(アリス)のタイトル確認スクリーンショットを探していた時に見かけたので。この曲はサウンドがものすごく好みで、初めて聞いた時から即お気に入りだった。こういう系のアレンジって何ていうんだっけ?何か呼び方があった気がするんだけどいつも忘れてしまう、、日本で言えば大瀧詠一さんのような、古き良き穏やかなサウンド。

例の絶対音階の弊害によって、たとえ母語である日本語であっても私には見知らぬ曲の歌詞を聞き取るのがとても難しい。そこにさらに「言語差」のハードルが加わってくると、困難度は数段階上がる。
私が今英語の新しい曲を知るのは、片付けなど比較的脳内コストの低い作業的活動をしている時や就寝時に(他に聞きたい番組が無くて)AFNをかけている時なんだけど、AFNって曲名もアーティスト名も言わずにひたすら音楽をかけ続けるから、「これ良い!」って思った時にすぐまた曲に辿り着ける情報を得られない。そう言えば、帰国生の子が「日本の音楽番組はうるさい」と言っていたことがあるけど、向こうだと日本みたいにパーソナリティーが曲紹介をして盛り上げてからかけるっていうことが少ないのかもしれないね。
いずれにせよ、そんなわけで、(絶対音感のせいで)そもそも脳が「音階」に集中して「ことば」に意識が向かない状態を捻じ曲げて、さらに慣れない言語の「歌詞」を聴きとらなければならないというのはなかなかの苦行である。だって、歌の中では普段の話し方とは違うリズムやメロディーに乗った状態で「ことば」が動いているわけで、会話やプレゼンスピーチ等を聞き取るより遥かにきついんだよ。。
だから出会った初回でタイトル判明まで辿り着けることはあまり無い。そもそも手が動いていたり眠ろうとしている時だったりするので、すぐに検索できる体制になっていないことも大きい。そのため、だいたいはサウンドだけ脳内に残って「あの曲良かったなあ、何て曲なんだろ?音階で検索ができればいいのに」なんてしばらく考えては忘れることになるケースが多い。AFNって新旧ごちゃ混ぜに曲をかけるから、流行りのスタイルに乗った形のものだと時代の検討もつくけど、そうでないものはいつ頃の曲なのかすらわからないし、とにかく、「歌詞」を聴き取らないことには曲名に辿り着けないのだ。

そんなわけで、私の中には聞いていいなと思ったことがあるけど曲名がわからない英語曲のサウンドがたくさんストックされているんだけど、そういうものに再び出会った時が勝負の時(自分でタイミングをコントロールできないのがきついところではあるんだけど、やっぱり「ご縁」だから、必然性のあるものにはきちんとまた出会うことになるはずだと思っているし、実際そうなっていることが多い、から、わからない状態でもあまり焦らない)。
だいたいはすぐに「あ!あの曲だ!」と気付く(記憶に残っているのもサウンドだし、聞いて優先的に脳が意識するのもサウンドだからリンクしやすい)から、その時は作業の手を止め、端末を手元に手繰り寄せ、全力で頭を「歌詞モード」に切り替えて、聴く。全部を一気になんて無理だから、聞き取りやすいフレーズを複数探して(よくある歌詞だと一つでは特定できない)、見つかったらすぐに、組み合わせて検索をかける。候補が出たら、その歌詞を見ながら曲を聴いて確認する。一致すればミッションコンプリート(違った場合はフレーズ聴き取りまで戻ってやり直し。曲中に間に合わなかったら次の機会を待つ)。タイトルと歌詞の載っている画面をスクリーンショットして作業や就寝態勢に戻る。

そんな一連の作業を経て残っていた"Don't answer me"のスクリーンショット。だいたいは曲名の特定で満足して(必要な時にまた見たり聴いたりすればいいと思っているから)その場で歌詞までよく読むことはしないので、例に漏れず、今回初めて歌詞を読んだ。
これ、めちゃくちゃ「逆説」の曲だね。ダレンも好きなのでは?サウンド的にもアメリカ的ではないなと思ってはいたんだけど、この物言いはイギリスでしょって思ってアーティスト名を調べてみたら案の定イギリスのプロジェクトだった。笑

野鳥版日本語↓
ーーーーー
もし君が魔法の力を信じているのなら
その考えを僕が変えてあげる
もし君が誰かを信じる必要があるのなら
後ろを振り返って見てごらん
僕たちが夢の世界で暮らしていた時
行き先には雲が立ち込めていて
僕たちは狂気の中諦めて
そして全てを投げ捨ててしまった

答えないで、静寂を壊さないで
僕に勝利させないで
答えないで、そのまま君のスペースの中にいて
僕を踏み込ませないで

全ての人から逃げて隠れていればいいよ
僕たちが言ってしてきたこと、君は変えられるの?

もし君が魔法の力を信じているのなら
そんなの虚構に過ぎないって教えてあげる
だからもし君が誰かを信じる必要があるのなら
それが僕だってフリをしてごらん
見知らぬ人として会うんじゃ足りない
僕は君を自由にしてあげることはできない
だからこの僕に対して永遠に背を向けていてくれるかな?

答えないで、静寂を壊さないで
僕に勝利させないで
答えないで、そのまま君のスペースの中にいて
僕を踏み込ませないで

全ての人から逃げて隠れていればいいよ
僕たちが言ってしてきたこと、君は変えられるの?
ーーーーー

うーん、清々しいほどの「いけず」。全部裏、全部逆説。笑

京都の「ぶぶ漬け論法」?もそうだけど、私もそういう婉曲というか逆説的な物言いのほうが馴染む。まあこれは私が自分の意志を出すことが許されない環境下にあったからそうせざるを得なかったというのも大きいんだろうけど。

しかし興味深いのは、それは私だけで、あの家の人間達がぶぶ漬け論法を使うことはなかったということ。あの人たちはあの人たち同士で「仲間」だったから、馴れ合いの世界ではあるけど、裏からではなく表の物言いで、繋がっていると思っているらしかった。一方、私に対しては「仲間ではない」(権力者の気に食わない対象として認定共有された)から、「お前が悪い」「出て行け」「死んでしまえ」等が表から烈火のごとく投げつけられ黙認され続けた。裏から同じことを言ったとして、それらが非人道的なマルトリートメントであることに変わりはないんだけど。しかし人権感覚が欠落し認知が歪み聞く耳を持たない理性とは無縁の人間や集団には何を言っても通じない。関わるだけ無駄。逃げるが得策。損切りは早いほうがいい。

私は多分毛色が違ったんだろう。理由はわからないけど、とにかく私はあの人達とは違って、そこがあの人達の癪に障った。おべっかをつかわない、黙って一族の意向に従わない、なんとなくで済んでいたはずの暗黙の了解に論理と根拠で反論する、個を保持しようとする、、
「思い通りにならない」反乱因子は「仲間内」の平穏や利便性のために粛清されることになる。あくまでナチュラルに。誰も疑問にすら思わないし何も感じない。だから指摘されても気付かない理解できないし逆ギレする。これが「である」の世界のお約束。政治の世界も一緒。一切見込みはない。

私には「個人」としての存在が認められ保障される西洋的な価値観、論理と根拠で対象と向き合う、公平さと透明性が求められ保証される傾向がある学術の世界、批判的思考と対話、人権や多様性を重視し理性的に平和や共生の道を模索する大学の環境が、存在の維持の支えになっていた。
人によって、快適なもの、存在しやすい環境は違うはずだけれど、それぞれの人が、自分にとって苦痛でない、自分も他人も傷付け傷付けられる必要のない安定的な居場所が得られればいいなと思う。


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