見えないものことをどう捉えるか

麻疹キャリアなのに大阪から上京して都内で入院した20代女性の件、保健所が公表しなかった品川着後銀座での食事までについて、私はそもそも何故(銀座へ行くのに東京まで乗らず)品川で降りたのか、5時間以上もある空白時間に電車も使わず不特定多数と接触しないことなんてあるのかと違和感を覚えていたんだけど、SNSチェックをしたら「とある公演(口止めされていたため名言されていなかった)で観客に患者がいたと主催者からメールが来た」といったツイートに観劇好きの方々が騒ついていて、食事場所や時間帯で「(察し)」となることがあったようで、そういうことか、、と思っていた。
そして京都市男性の件では、私自身がかつてライブジャンキーとしてあちこち飛び回っていた時期の体験から、やはり利用駅、立ち寄った店舗と時間帯で「(察し)」となった

知らない者にとっては全然見えない、意味をなさない情報も、その裏の文脈を埋める知識なり体験なりを持つ者にとっては、vividな意味を持つ情報となる。

これは私がダレンの歌詞に反応したり、ダレンがアダルトチルドレンだったり希死念慮を抱えたりする友人を持ち(実際その中に自死者もいてその人に向けた曲"You can still be free"を作っている)、私自身も機能不全家庭出身の友達先生と何故か繋がってきたこととも関連していて、その世界を「知らない」人にとっては「見えない」「気付かない」ことを「見て気付く」、そのことをさらに「気付く」という構造がそうさせてきたのではと今では思っている。

大学入学後、明らかに通える距離から、むしろ実家より遠い場所で一人暮らししているということを、周りにどう伝えるべきかとしばらく考えていた。私だったら、そんな状況について聞いたら、(他の人がいないところなどで)「ちょっと大丈夫?話、聞こうか?」(明らかに自発的に家を出ている状況で、そうさせる重大な事情があるはず)となることだからだ。
でも、そんな心配は全く必要無かった。愛され穏やかに育まれたクラスメイト達にとっては、その状況の不自然さは特に問題にならず、他の上京してきた一人暮らしと同列の「ただの一人暮らし」として受け止められたし、(昔、「女だから」と短大にしか入れてもらえず、子育てを終えて大学へ入学してきた)元主婦のクラスメイトには「自立していて偉いわねぇ」と言われて、私は驚愕した、のと同時に安心もした。

伝わらないことには不便もある一方、不必要なものを「切り離せる」という大きなメリットがあった。

私にとって重要なのは、同じこと、分かり合えること(共感)「ではなく(そもそもそれが成立することなどない)」、ただ、心身の安心安全を脅かされないことだけだったし、「察し」の通じない人々に「伝わってしまったらどうしよう」と思う必要なく、ただのクラスメイトとして一緒に過ごせるのは精神的にとても良かった。
勿論、友達が私の安全を脅かすことなど無かったし、時々生じる(本当は被虐待歴と関係している)「違い」についてもただ「野鳥は変わってるよね〜」とか「やっぱり野鳥だね」で笑って合わせてくれた。皆にとって「自分は自分、人は人」が共有されている環境だったから、理由も説明も必要なかったし、たとえ違いがあったとしても私は「ただの人」でいられた。きっとプリンセス達も同じところで救われたんだろうと思う。

このように見えなくていいこともあれば、一方で、「見えない」が招く問題もある。
まさに目に見えないウイルスの存在や、その潜伏期間や、じわじわ免疫、循環器、認知などに与える影響、後遺症等について、認識、想像できない層が相当数いるということ、そしてそれを利用して「無策」による「被害」を「自己責任」で切り捨てようとしている体制の中で、現在進行形で、複数の感染症が継続的に同時多発状態にあること。
今後は特にコロナと麻疹という免疫破壊&リセットを伴うウイルスが互いを補完強化しながらさらに多くの人々とその生を蝕んでいくことが確実視されるにもかかわらず、美しいこの国の人々は「コロナ禍は明けた」という政治マスメディア広告業界が演出した「ムード」に乗り、「卒業式!」「北陸応援割!」「春の行楽シーズン!」「歓送迎会!」「春休み!」と、全力ノーガードで「マスクを外して」積極的に感染連鎖を生んでいる(いく)。

見えにくいもの、見えてこないもの、隠されているものを見るためには、まずは一定の知識と、それをベースにした思考力、特に批判的思考とメディアリテラシーが必要なんだよ(この意味で貧困層の拡大と公教育の崩壊が進行している現状は致命的)。
事実や根拠、客観から遠い人間はコロっと「お気持ち」に呑まれるから、プロパガンダやイデオロギー、カルトなんかに簡単に絡め取られ染められてしまう。そして、実際はただ見捨てられ利用されているだけなのに、自分も自分が信じたい相手の「側にいる、仲間だ」と「思い込んで」、熱心に活動を行い続ける。それが自らの身を滅ぼすものだということだとは夢にも思わずにね。

今週後半に麻疹の新規感染について発表が無かったのは、北陸新幹線開業のお祝い「ムード」に水を差さないためだろうと私は見ている。「である」の世界の人間達は「お気持ち」「雰囲気」で動かし動かされるし、そのためには「忖度」が前提となる。「見送られた」続報は週明けに出てくるんじゃないかと思う。その間にも楽しく二次感染は起きているのにね。まさに新幹線の中でも。
ライブ、観劇もそうだけど、「一番列車」だって、全国からコア層が集まってくるものだから、その移動に伴ってウイルスは見事に持ち込まれ、お持ち帰りされる。

「である」世界が見ているのは現実ではなく虚像。嫌なことは塗り潰していい夢見させてくれるドラッグで作り出した実態なきバブル。
忘れちゃったの?バブルははじけるものなんだよ。昨今の謎の株高だってね。ある時売り抜けで大儲けする巨大な海外資本の前に、残されるのは途方に暮れるほどに赤を抱えた、踊らされた人々。そして玉砕もあっさり自己責任にされるんだ。神風なんて吹かない。

また話が逸れてきた。

2007年からあったらしい(けど2007年の統計が確認できない)麻疹の大流行について、当時学生だった私は全く知らなかった。Twitterでは大学や学校が休校になったという書き込みもあったんだけど、エリア的なものなのだろうか、私にはそのような記憶がない(ちょいちょい記憶が飛んでいる時期がある私だけどそれは主としてトラウマに関連する時期で、学生時代は基本的に楽しく過ごしていたはずだから記憶が飛ぶ理由が見当たらない。あったとすれば論文が書けなかったことくらい、、あ、あれ、、???)。
私はこの時期ライブジャンキーになっていて、くるり、フジファブリックを二本柱に、その他のアーティストのライブにもとにかく行ける限り通っていた(Coccoはすっと好きだけどライブ本数が少ない)。くるり、フジファブリックに至っては東京公演連日であったとしてもチケットが取れれば取れただけ通ったし、近県や京都等への遠征も普通にしていた。ワンマンライブだけでなく、フェスや学園祭等のイベントも含め、とにかくスケジュール的に行け、チケットが確保できたものには全て通った。まさにライブが生き甲斐状態だった。

だから、20代女性が「公演初日に、遠征してくる」気持ちは痛いほどわかる。勿論、30代男性が京都から大阪城ホールに行くことも。私にとってはZeppや(もう無くなってしまった)新木場Studio Coastに通うようなものである。規模的には両国国技館のほうが近いかな(フジファブリックの国技館ライブ良かったなあ)。

当時の流行を知らなかった私が自戒を込めて考えてみた。
「もしあの時麻疹の流行を知っていたとしたら、そして自分がキャリアである可能性があるとしたら、私は踏みとどまれたのだろうか。」

きっと悩んだと思う。怒り狂ったかもしれない。でもきっと、私は止まった。
この4年以上、富士吉田へ通っていないことからしても。

大切な人、街に、キャリアであるリスクが高い生活(都市圏かつ元学校所属、しかもノーガード)をしているから、明らかに「持ち込み」が無ければ平穏が続く可能性が高い、人と人との距離が近いローカルコミュニティーに、ダメージを与えてはいけない、よりによって志村さんのファンがその故郷の感染源となってはいけないと、私は自分を律した。
5月までの職場にも、その関係先にも、(ノーガードな学校から)持ち込んではいけないと、上司に相談し、色々調整をしていただいていた

私は、血縁には恵まれなかったけど、その外で、優しい大人にたくさん出会い、大切にしていただくことができた。
自分にも自分でない人にも思いやりの目や手を持ち差しのべる先生方と接して、そうあることが、自分のような人間、犠牲者を作らない、あるいは既に傷つけられてしまった人々を癒す上で重要だと、自然に思うようになった。

勿論、「自分」も大切だよ。でも「自分だけ」を優先して他者の尊厳を無視し蹴落としていいなんていうのは歪んでいる。「自分も他者も」「共に」健やかな状態でいられること、他者も大切にすることが実は自分を守ることにも繋がるのに、新自由主義社会の価値観では見事にその点が削ぎ落とされてしまった。
SDGsもウェルビーイングも、「特に強者にとっては」本来の主旨から歪曲化され短絡した、「自分のためだけのもの」にすり替えられてしまっている(そして自分のために他人を犠牲にすることが正当化されてしまっている)。
全く逆。それではダメ。自分を尊重するためには他人も尊重しなければならないのに、それを若い子達に伝える大人がいない。

「今ここ自分だけ」のお気持ち、欲求欲望のみで動く大人ばかりが幅を利かせて政治もメディアもエンタメ広告も動いている。学校だってね、、(「マスクを外したい・外させたい」のは「自分が(他人のために)感染対策をしたくない」教師でしょ)。そんな大人ばかりを見て、他人や特に弱者を慮れる子どもが育つはずない。
発症していながら平気で飛行機に乗り帰国し、エティハドクラスターを巻き起こした20代も、発症していながら学習塾アルバイトをした20代も、保健所からコンタクトがありながらも新幹線で大阪→東京へ遠征してきて観劇飲食後無事発症し入院した20代も、皆、「今ここ自分だけ」の美しい国の美しき大人たちに「社会化」された若者なんだよ。鏡に映っているものを見て考えたほうがいい。彼らを作ったのは何なのか。

今の若い子が見てきたのは「集団自決」だとか「自己責任」だとか「自助」のロールモデル。どんなにでたらめなことをしても常に「自分だけ」は免責、代わりに他人に責任転嫁する、それが可能な立場にある強者のみが一方的に得をして弱者は無惨に切り捨てられる歪んだ大人達の世界。

利他?配慮?何それおいしいの?状態で「嫌なら出てけ!」(もしくは「非国民!」「反日!」)で片がつく。そして出て行かずに生き地獄にさらされても、出て行って生き地獄にさらされても、どっちでも「自己責任」。常に強者が決めて裁いて得をする。異論反論は認めない。全てそれでどうにかなってしまう。

そりゃあ、自分もそっち側にいたくもなるよね。たとえ気分だけでも。はむかったら損するしむしろ刃が向けられてそれも「自己責任」にされちゃうしね。そしてそんなところに「仲間気分」にさせてくれる魔法(麻薬)がどんどん投げかけられる、「この道しかない」と。

GOTO!プレミアム商品券!絆!応援!復興!インバウンド!カジノ!オリンピック!万博!リニア!新幹線!脱マスク!

楽しいね。なんとなくよさそうな感じに聞こえてくるよね。みんな言ってるし。政治家もマスメディアもインフルエンサー広告業界も。
でもね、目先にぶら下げられたニンジンに齧り付いて、得した気になって踊り続ける人間が履いているのは「赤い靴」。止まることのできない呪い。吸い尽くされて食い潰されて、挙げ句の果てにポイされる。インパールの先に待っているのは美しき玉砕(ヒロポン打ってその場凌ぎしたところで現実は何も変わらない)。
それで得をしているのは誰なのか。少なくとも市井の人間ではないんだよ。

5類だって見事に実現したわけだけど、その結果いったい何が起きたんでしたっけね。
5類になっても医療崩壊は変わらず、診療も入院も救急車も充分に回らなかった。検査にも薬にも費用がかかるようになった(から検査控え通院控えが増えた)。自宅療養するにも品切れでまともに市販薬すら買えない。4月からはワクチンも含めてさらに補助が打ち切られるようになる。抗ウイルス薬に何万も、ポンと払いたい?払えるの?
考えてみてよ。「感染しない」ことこそ、最もコスパもいいんだよ。そして「感染させない」ことが「経済も回す」し、労働力や学力維持」にも必須なんだよ。

国をあげてのノーガードノーマスクが遂行されるようになった結果、大人は勿論、学校を中心にコロナだけでなく複数の感染症が立て続けに流行することになって、その中についに麻疹まで加わった。

2006年の高校での集団麻疹感染事例にもあったけど、MRワクチンを接種していたとしても抗体ができなかった場合や抗体価が下がっていた場合には普通に感染する。特にコロナ感染歴がある場合には免疫が破壊されているから「2回接種」とか「過去に抗体があった」とかもガードにならない可能性がある。
当該事例では生徒や教職員の総計約900名のうち、一ヶ月強の間に95名が欠席し全員が37度以上の発熱があった。このうち医療機関で麻疹と診断されたのは33名で、残り62名は医療機関にかかっていないかもしくは麻疹と特定されなかったことになる。しかしこのうちの多くは麻疹症例と発熱ピークが一致しており、診断はつかなかったものの麻疹の関与が推定され、このうち同意が取れた有熱者3名を検査すると、2名が麻疹と確定診断されたという。つまり、校内で発生した欠席者のうち3分の2程は、病院へかからなくてもよい程度の症状であったか、症状が出て病院へ行っても麻疹であることが見逃される病状、おそらく「修飾麻疹」であった可能性が高いと言えよう。
私はこの先の麻疹流行の相当数はこのような形での「修飾麻疹」となり、だからこそ追跡も対策も困難となり、コロナと同様、「大多数の人にとっては死なない病気だから」という理由で放置される中、コロナ麻疹のダブルパンチで免疫不全を起こしている人間の中でウイルスの変異がさらに進み、これまでのワクチンが無効化される株が出てくるんじゃないかと踏んでいる。
既獲得免疫をリセットする麻疹に感染した後のコロナ感染がどうなるのか、それと順調に積み重なっている複数回感染歴による相互作用がどうなるのかも気になるところだ。

コロナ+麻疹は最悪の組み合わせだよ。免疫不全者ばかり増えたら、コロナや麻疹の変異だけじゃなく、他の感染症だって活発化&変異が進んでいく。それなのに、このままノーガードで猪突猛進し続けていていいの?

今のところ、何故か(コロナはスルーでも)麻疹については警戒心を持っている人がSNSには多く見られているんだけど、この際「麻疹のため」でいいよ。ちゃんと感染対策しようよ。
麻疹の対策はコロナの対策にもなる。ワクチン打つだけじゃない、大事なのはその他の対策も組み合わせることね(今、ワクチン足りてないから打ちたい人も思うように打てない状態だよ?だから、ワクチン外の対策もしよう。トラベルクリニックのMMRワクチンだって、殺到したら在庫切れになるかもしれないし、MMRワクチンは輸入だから、貧しくなった日本が安定的に確保できるのかはあやしいし、円安で値上がりする可能性だってある)。とにかく、日頃の実践、継続が重要。

自分が今元気でも既に感染しているかもしれない。人に移してしまうかもしれない。
目の前の人あるいは距離的に多少遠くても閉鎖空間を共有している人がその時症状がないように見えても実は感染しているかもしれない。自分が移される可能性があるかもしれない。
そう考えて、移さない移されないようにちょっと気を付けて工夫する。

換気、マスク、自分が移される場所を避ける、自分が移してしまう行動を避ける。

多くの人がこうできれば、日常を維持しながらもぐっと感染を抑えることができるんだよ。
0か1か、緊急事態宣言かノーガードか、じゃなくて、普通の生活の中に皆で少しずつ譲り合って工夫してやっていこうよ。本来の日本の良さってこういう、相手を思いやって、協調して、やっていけるところじゃなかったの?

何でもかんでも自分が全て、他人は蹴落として「自己責任」を投げかける。
そんなんじゃなくて、人を社会を慮る、子ども達の未来や将来を考える、責任ある大人の背中を見せていこうよ。
長く生きる子ども達の健康も、自分の健康も、守っていこうよ。

2022年までしていたことじゃない?できたじゃない?

誰もいなくなってからでは遅いんだよ。あるいはそんな風に大人数でなくとも、たとえn=1であったとしても、それが自分や自分の大切な人であったら、悔やんでも悔やみきれなくなるよ。

できるところから、少しずつ、そして継続することが大切。
麻疹、止まるといいね。コロナもその他も。

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