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2022年度の概要+国語科教諭公募について

以下、人権委員会への再々申立書より
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帰国子女受け入れ校である元所属(高校基督教大学高等学校、通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)「人権」や「多様性」を謳っているはずの国際基督教大学(通称ICU)法人における感染対策にかかるパワハラ追い出しとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。
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1年生の現代文は入職当初は3レベル制だったが、後に4レベル制になった(L1が一番難度が高いレベル)。私は2020年度までは常に1年現代文L4を担当していたが、2021年度は感染リスク(発話量と人数)との兼ね合いから割り当てられた分を断り、2022年度についても、(おそらく1年現代文は持てないと事前に科に伝えていたことから科が人数の減っている2年を割り当て)2年現代文L4を担当した。

換気もマスク嫌いな専任達の「ホーム」(こちらは「アウェイ」)である研究室の環境は常に脅威だった。

呼び出しの件は、本当は一番ここを詳説したいところなのだが、保護対象の状態を含むことになってしまうため、どうしても行えない。悔しい。

人事部にも人権委員会にも理解されなかったが、呼び出しの件が当人には一番堪えており、この時期以降、(既に充分過ぎるほどに強かったのだが)ノーマスクノーガードの人間への恐怖と嫌悪が増幅し、ノーマスクを見ると過去の刃物襲撃のフラッシュバック、また、呼吸困難を起こすようになる。

手続き後、東京から逃げ出し京都にいる時に「取り下げ」についての連絡を受け、先生ともずいぶん混乱した状態で話すことになってしまった。

「である」の世界で何をしても無駄。大学はそうではない、と、思っていた。

14日に連絡をくださったのは「きぼう」のメールの先生。

学生時代の教職員の方とお会いした際にも「呼び出し」の件を核に話をしている。
元所属では退職アナウンスも送り出しも一切行われなかった。存在や問題の徹底した無視否定。

こちらは(元所属で何をしても不毛なので)最初から最後まで大学に、一縷の望みをかけた。が、それも無駄だった。


以下は当該時期に同僚の先生や学生時代の先生ととっていた連絡

呼び出しについて同僚の先生と。

情報隠蔽は「である」の世界の定番。

認知の歪みも定番。

2020年度の時点でその性質を強く認識していた。

生徒の発話機会を多くとるからこそ、マスクが必須だった。

「である」の世界では簡単に現実が歪められる。

過大なアピールを行っていないならまだいい(別のもっとふさわしいところを選べるから)。だから実情を記載していく。

生徒が本当に不憫だ。

形だけの対話実態なき演出はむしろ害悪。

通常、担当生徒達は非常に元気で、あれこれ文句を言われ、それに理由と共に返答したりしながら関係を作り、生徒の状況ニーズを確認しつつアプローチを調整していた。それがこの年は無かった。

とても傷付いていた。学習的無気力状態だった。

期待して入学してきたのに、本当に理不尽。

ノーマスクがいない時を見計らって作業していた(換気しても妨害されるしリスクしかなく、息もできないから)。

「つもりはなかった」「誤解を与えてしまった」どこかでよく聞くパターンだよね。「である」の世界あるある。

「ノーマスクの巣窟」

5月までの職場環境について比較している。

理性なき世界、「である」の世界は絶望。全て無駄で不毛。

この頃も咳の音に着目している。

年始は(も)京都で過ごしていた

時間割発表後、ばたばた立ち話をしたものの時間切れだったので帰宅後に。

発表当日、別の非常勤の先生に心配された。

「国語」と「日本語」は全く別で「日本語」の視点を持つ者にはそれが自明なのに「国語」のみの者にはそれが見えない。私は免許は国語、英語を取得し、日本語教員養成も受けている。

理不尽な人間が理不尽なことをするのは不適切だけど当然なことだからね。

マスク無しで生徒に多く発言させる授業を行うと、教師だけでなく生徒の感染リスクも当然高まる(むしろ距離的には生徒内に感染を広げるリスクが高い)。

合理性なんて、「である」の世界では何の意味も持たない。

提案を否定されることなんか最初からわかっていた。

良心は大学にしか望めないと思っていた。

大学があったから、それまで繋げてきていた。

私が望むのは脅かされないことだけ。

権力構造が強固な「である」の世界で(劣位の)非常勤が何をしようと無駄。

やはりそうなるよね。

中で解決しないなら外に開くしかない。

隠蔽、もみ消し、「である」の定番。

きぼう」の先生に。

変わるきっかけは大学でしか得られないと考えていた。

隠蔽、利権、恣意性、独裁。反逆者は敵。

「無駄」が多いな。そしてその後「最後の砦」も崩壊した。

本当ならできる、能力の高い子に「できない」対象向けの授業するのは尊厳の否定。

定年までキャンパスで過ごすと思っていたよ。

簡単な国語の授業をすればいいという認識こそが生徒達を傷付けてきた。

安全で健全な学びの場は貴重。

この面会は本当に楽しかった。教養って大切。

対話も大切。

これは京都の先生とのこと。

形だけの人権対話に意味は無い。

行政部からの怪文書への返答を作っていた時期。

「大学の人達とは」対話が成立すると感じていた。


不本意だ。
こうならないように手を尽くしたのに。
内部で解決していれば、外に出す必要無かったのに、それを望み、伝えていたのに。


前年度までのことは
2020〜2021年度の概要
この年の時間割設定時の科への文書は
References in AY2021
秋の「呼び出し」後、日本語支援についての科への提言は
References in AY2022
翌年度の時間割をめぐる行政部とのやり取りは
2023年度の時間割について(行政部文書と返答)
全体的なことは
From middle of nowhere
に置いてある。


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国語科専任の公募が出たので、ここに参考情報を置いておくことにした(応募要項等はリンク先ページ下部の「国際基督教大学高等学校教諭公募」を参照のこと)。
以下、事実と解釈を分けて記載する。

事実
①国語科専任の公募は22年度末(24年度着任予定)ぶりである。この(22年度末の)公募は中堅の退職の補填のためのものであった。
②予め組まれていた採用公募は余裕あるタイミングで行われる。6月開始は通常より遅い(新規で科専任を設けることになった情報科の公募は5月には始まっていた)。
③国語科専任には21、22年度2年間の休職者(若手)と22年度末の「定年ではない」中堅退職者がいる。
行政部及び国語科専任は感染対策や日本語支援体制に物申した日本語科の非常勤講師を22年度末にパワハラの末「追い出し」、23年度、帰国子女受け入れ校から見事に日本語科を消滅させた。以降、日本語科の公募は専任非常勤共に無い。
⑤国語科の非常勤講師も22年度末の公募以降、募集は無い。
⑥今回の公募の採用担当者は【22年度末の公募の担当者と同じ】(前回の公募担当だった23年度の科主任が24年度の公募も担当している)である。

解釈
・今回の公募は今年度に入ってから申し出があったイレギュラーな退職によるものである可能性が高い。5月末に近日中に情報公開予定と事前告知があり6月7日に情報が公開されたが、このような形は異例で、公募開始時期も遅い。

・今回の公募のイレギュラーさは【採用担当者が22年度末の公募と同じ】であることからも見てとれる。通常、同校の公募窓口は科主任が担当し(科に専任がいない場合は教頭が担当する。情報科の窓口が教頭なのは専任がいないため)、科主任は年度ごとの持ち回り制(科内の専任間で一巡させてからまた回ってくる形)であるため、23年度(22年度末に公募開始)の窓口と24年度の窓口が同じになっているということは、24年度の科主任が何らかの理由で早くもクラッシュし、前年度の科主任(若手)が代理で窓口を務めている、今回の公募は今年度の当初の科主任補填である可能性が高い。(ちなみに国語科では2022年度にも急な科主任の変更があった。)
・募集要項上の形だけの「帰国生徒の日本語教育〜」の文言は22年度末の公募と同じ(=前回の文言の使い回しを定型文化させた模様)である。なお、日本語科を消滅させる以前は「帰国生徒の日本語教育についての学究歴をお持ち」が明確に条件にされていることは無かったはずである。

今回、国語科は独自の応募用紙を作成しているが、その中で問われているのは


「応募者自身に影響を与えた本の題名」「高校生大学生に薦める書籍(日本文学、日本語学以外)」「【国語】教育観」「信仰歴、キリスト教教育観」であり、想定されているのはあくまで日本国内の一般的な1条校の中で「キリスト教主義」の学校に勤める「国語」教員である。つまり、校名「国際基督教大学高等学校」の中の「基督教」の部分だけ抽出し【「国際」は削ぎ落とした形】で、これこそが、同校及び特に国語科の「帰国生」へのまなざし、「日本語」や「日本語生」への無理解無配慮を反映したものである。
・募集要項では形だけ「帰国生徒の日本語教育」等と記載し、応募用紙で「信仰」については問いながら「国際」「帰国生」「日本語教育」を回避したのは、それらを適切に評価できる人間がいないからである。ちなみに、教頭(国語科出身)が窓口になっている情報科の公募でも「本校生徒の多様性」のみの記載で、国際性についても帰国生の言語的な背景についても言及は皆無である。


同校の【形だけの国際性】【帰国子女の中でも特に学習言語としての日本語運用能力に大きな困難を抱える生徒を受け入れるだけ受け入れて放置】する体制は盤石である。おそらく、(うまいこと日本語科を消滅させたことにより)以前にも増して「自分達にcapableな国語の枠」のみで生徒を教育評価する傾向が強まっているだろう。非常に痛ましい。

応募にお勧めする人
・高偏差値高で「国語」という意味での日本語で授業を行いたいキリスト者(応募用紙内の問いも、この条件であれば適切なものであるし、同校の(日本語運用能力に困難を抱えない生徒に対しての)「国語」の教育環境については筆者は特に批判をしていない。)
・権威主義全体主義に親和性が高く、組織の決めごとに従い空気を読み長いものには巻かれる「臭い物には蓋」でうまくやっていける方

応募を避けたほうが無難な人
・「帰国子女受け入れ校」として有名な高校の環境、「国際性」「多様性」「日本語教育」をイメージしていた方(組織の主流派とは真逆の方向性なので、「巻かれない」、同化できない場合は「敵」認定され潰されます。もっと知見や経験を活かせる別の場に行かれたほうがいいです。)
・「臭い物には蓋」ができない、おかしいことにはおかしいと言わずにはいられない方(やはり、「敵」認定され潰されます。現行の行政部体制になってから主流派でない専任がベテラン、中堅も相次いで離職しています。)
・基礎疾患がある、同居人に感染を持ち込む訳にはいかないなど、職場感染を避けたい方(マスク着用、換気をはじめとする感染対策を嫌う、5類で大喜びであろう教員が主流派です。感染対策を求めても無視されるか「敵」認定され潰されますし、校内特に研究室内、同僚からの職場感染リスクが極めて高い環境です。合理的配慮はありません。)

筆者は「人権」「国際性」「多様性」「日本語支援」を主張しない一般的な1条校の高偏差値高としてであれば、同校の教育環境は概ね良好であると思っているし批判はしない。
筆者が批判しているのは、大学の建学理念、そして高校設立の経緯を無視した「国語という意味での日本語+英語で能力の高い生徒を教育する(+感染対策をしたくない)教員に適した制度と環境」を、そこに安住できる専任の主流派が押し進め、異なる視点や価値を排除し、イエスマンのみで視野狭窄が煮詰まった中、自己内省が全くきかなくなっている(現実や根拠とは関係なく「自分達はやれている」と思い込んでいる)状況であり、それは特に校内の日本語生や、感染させられたくない生徒(+教職員、特に立場の極めて弱い非常勤)を苦しめているであろうことである。加えてこのように極めて同質性が高い教員集団が、諸々の事象に対して(価値観を一にする)「チーム」「仲間」にだけ優しく快適な、合理性を欠く恣意的独断独裁な判断、運用を行う不健全な傾向はますます強まっているのではないかと推測される。
国語科の応募用紙の問いは、同校の実践環境(すなわち「国語という意味での日本語」で教育を行うキリスト教主義の学校)とは一致している。しかし、同校の広報状の主張(特に国際性、多様性、帰国子女教育、日本語支援)とは大きく乖離している。今回の公募には、同校の今が見事に現れている。

せっかくの専門性、経験や知見も、それらを適切に表出できる環境でなければ活かせません。同校は「日本語教育」「国際性」「多様性」を受け止められる組織体制ではありません。また、感染症対策は非常に甘いです。以下ページの資料をもとに充分ご検証の上、応募を検討なさってください。
同校の国語科専任に応募しようとお考えの方であれば、文書は読めるはずでしょう。よく、批判的に読んでください。そして検証してください。広報と、募集要項と、起きたことと、推定される現状と、あなたがその環境で力を発揮できるか、持続的に勤務できるかを。その上で応募→採用される(た)なら、どうか日本語生の苦難についても目を向けていただければ幸いです。

2020〜2021年度の概要
  References in AY2020
  References in AY2021
2022年度の概要
  References in AY2022
  2023年度の時間割について(行政部文書と返答)
  人権委員会申立書
From middle of nowhere
人権委員会不受理後


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