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「お気持ち」社会、リテラシーとSilent killing

元所属(帰国子女受け入れ校)法人におけるパワハラとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。


生死、目に明らかな生傷、貧困、病気、障害ーそういった「見えやすい」現象に、人々は着目をする。

幼い子供が虐待の末死亡した、殴られたり火傷を負わされたり食事を与えられなかったりした形跡があった、日々の生活、食べるにも困る、給食費も支払えない経済状況だった、重病、難病、明らかな障害(身体的なもの、視覚、聴覚、ダウン症、知的なもの)等は、それらを取り上げる「メリットがある」(着目される=視聴率等広告料その他収入が見込める、事件が起きた、特番、番組映画等の作品が出る等の)時にだけ、メディアも取り上げ、そしてその思惑の通り、人々は「一瞬だけ」「感情的に」喚起され盛り上がり、そしてあっという間に忘れ去っていく。自分には関係のない他人の「物語」を、メディアも視聴者も「消費」しているわけだ。自分はそうではないという離れた、安全な立場から。

人の感情を動かすために「わかりやすい」「物語性」は欠かせない。
「かわいそう」「許せない」「あんなに頑張っている」ー怒り、憤り、涙、共感、そういった「強い感情」を「わかりやすさ」や「物語」は刺激しやすい。そしてそれらをより効率的に行うための「演出」や「脚色」が番組・作品構成の腕の見せどころになっているとも言えよう。

「強い感情」を喚起された人々は、作り手・送り手の発した「メッセージ」を「感情的に」取り込み、突き動かされ、例えば募金をしたり、番組・作品を見る、SNSで「お気持ち」を表明し連帯して盛り上がったりする等、作り手・送り手の利や収益に繋がる行為を「一瞬」行う。
そして「喚起された感情が冷めれば」、ほんの少し前までのお祭りも、何事も無かったかのようにきれいさっぱり忘れ去られ、人々はまた別の、「新たに感情を喚起させる」事象に乗り移り、盛り上がっていく。

全てはまあ、その繰り返し、つまり刹那なその時々の「消費」が前提であり、だからこそ作り手・送り手も「利用しやすい」「自分達のメリットに繋がる」事象をアジェンダとして選定するのである。

その際、「見えにくい」「分かりにくい」ものはこぼれ落ちていく。一般が直感体感的に理解し得ず、共感も強い感情の喚起も呼びにくいから、送り手・作り手にも、視聴者にも「魅力的でない」からだ。「見えやすい」「分かりやすい」中の「美しくない」部分もこぼれ落ちていく。
逆境に立ち向かう才能溢れるアーティスト、アスリート、決して諦めない強い心、周囲の理解とサポート、絆、輝かしい結果、、美しいよね。
でもそんな風に揃っているケースはほんの一握りで、現実はそう明るくはない。キラキラ障害者像を押し付けられて窮屈だという方もいらっしゃる。皆が皆、才能に溢れているわけでも聖人君子であるわけでもない。しかしそういった、より一般的な「特別ではない」人々にフォーカスが当たることはほとんど無い。

私は先天的な障害は無く、諸々能力的に低いわけでも病弱でもなく、優等生だったり進学校へ入らされたり(その後学習性無気力と勉強全放棄になったけど)、もいわゆる貧困でもなく外面がよいなど、外からわかりやすい問題があるわけでは、全く、なかった。しかしその影では、存在も意志も全て否定され連日「お前が悪い、生意気だ、可愛げがない、出て行け」と罵詈雑言を浴び、そうして言われた通りに出て行けば大騒ぎされ、一方、無条件で猫可愛がりされぶくぶく攻撃性肥え太らせる野獣の存在に怯えるもそのことを理解されることはなく、結局その野獣に刃物を突きつけられても安定の「お前が悪い」で「無かったことにされ」一件落着された。傷跡は残っていないし、全て外からは見えないところで起きてきたことだし、誰も信じることができない私が口に出す(他に助けを求める)ことも無かったから、「外」から見えることはなかった。それでも特に大学入学までは刃物フラッシュバックの頻発、極度の不眠や摂食障害、自傷等を抱えていたし、その後環境変化によりフラッシュバックや意図的な自傷は落ち着いたもののそれ以外についてはずっと、私は影響を引きずってきた。見えないところで、見えないこと、絶望を。(「である」の世界では「お気持ち」で「ある」も「無い」になるし「白」も「黒」になる。理由も根拠も証拠も一切意味をなさない。助けなど来ないし無限に続く理不尽や暴力が止むことも無い。どこにも光は無い。誰も、何も、信じられない。)けれども、「見えない」し「無い」のだ、外からすれば。

メディアには「アジェンダ設定」の効果がある。メディアが多く強く報じるものを(特にメディアリテラシーの低い人々はメディアは現実をそのまま反映したものだと思い込む傾向が強いし)重要だと認識するようになり、一方、報じられ取り上げられることが少ないものは「存在しない」あるいは「重要でない」「ことになって・できてしまう」。そしてそれを、為政者もメディア広告業界も意図的に利用する。

放射能汚染然り、コロナ然り、「直ちに影響がない」と「される」、即死しない、晩発性の、累積蓄積型でじわじわ身体を蝕むような損傷は、「見ない」「見せない」「認めない」で「無かったことにする」、そして「復興」「正常化」「経済」等、人々の「お気持ち」を刺激する物語で染め上げ、正当な防衛反応を取らせないように、体制側の責任を取らせないようにして「自発的に踊らせる」。戦時中にプロパガンダやヒロポンを駆使した体制、見事に染まり踊り出し、染まらなかったものは「非国民」だとこぞって攻撃した大衆。美しきニッポンの歴史は戦後も全く同じ地盤によって引き継がれている。

「見えないもの」「見せられないもの」は存在しないのか?そんなことはない。伝達される情報は、必ず、選別されている。そして特にこの10数年、体制に都合の悪い情報が隠され、逆に体制の「お気持ち」に沿う情報が積極的に流される傾向が顕著になった。

「アンダーコントロール?」「コロナ禍は終わった?」
「5類になったから日本にコロナは無くなった」等と本気で思って言っている人間が一定数いることに、救いのなさを覚える。
背後には「失われた30年」のうちの特に後半に急激に加速した「新自由主義」「公教育をはじめとする公助の放棄(自己責任・自助への押し付け)」「貧富の差の拡大(中流の崩壊と貧困の底抜け)」があり、さらにポピュリズムやSNS動画文化との関連で極右政治・カルトに扇動されやすい貧困・教育が行き届かなかった(批判的思考、合理的思考やリテラシーが身に付かず「欲求」「お気持ち」優位の)層が積極的に活発な鉄砲玉となっていく現象があり、改善のための仕組みをこの国が用意する見込みは無く(たとえ対策がなされたとしても目に見える結果が現れるようになるまでには10年単位の時間が必要になる)、むしろさらに悪化させることしか想定できないのが、沈没船の穴を自ら広げにいっているこの国の現状だよなと思う(まあ、マザームーンのためにサタン達とエバ国を滅ぼすミッションを負う体制だから、当然と言えば当然なんだけど)。

「である」の世界の住人にはきっと「お上」や「自分が信じたいメディア、インフルエンサー」がそう言っただけで問題が消えてしまうミラクルが起きるのだろう。何故か印籠を見せるだけで皆がひれ伏し、「めでたしめでたし」となるのと同じように。
政治家だから偉い。医者だから偉い。政治家の子どもも偉い。国や学校、偉い人が言うことに間違いはない。旧帝大や早慶、医学部の学歴(学校歴)はすごい。誇れる学歴をつけた自分、誇れる学歴をつけた子どもの親である自分になりたい。謎の血統主義や妄信、教育虐待も「である」の世界で起こる。そして「である」の人々達は根拠や検証、問いを嫌う。暗黙の了解、察しで問答無用で回る快適な世界が崩れるから。話が逸れてきた。

私は日本が白旗を上げ感染対策放棄する前、まだ緊急事態宣言などが出ていた時期にノーマスクに絡みに行っていた層(いわゆる「マスク警察」)の多くは今、自分がノーマスクとなり「コロナ禍が明けて〜」等と言いながら楽しく積極的に感染拡散に勤しんでいるのではと思っている。
なぜかというと、彼らの行動指針は客観的根拠、自らの腑に落ちたもの「ではなく」、「お上のご意向」「お気持ち」「なんとなくの雰囲気」でしかないから。時勢が変わればコロっと掌返しをする。戦前の軍国主義が戦後、墨塗で無かったことにされ、民主主義「らしきものに」(本質を伴わない形で)乗っていった時のように、自戒も無くね(私は勿論、戦後に模索された「平和主義」と、きちんと確立された「個人」による民主的な社会が、維持され築かれていればと思ってきた)。

私は2020年から一貫してマスクをしているしノーマスクはリスク要因として避け続けているけれども、ノーマスクに自ら関わりに行ったことは一度も無い。不毛だしリスクしか無いから(自発的にその意義を理解し実践できる理性を持たない層は、言われて従ったとしても「その時」の「形だけ」着用になるし、そもそも近づくと攻撃されたり感染させられたりするリスクが高すぎる。ノーマスクに絡んでいって下半身付随にされた人や電車内でボコボコにされた高校生、いたよね。ノーマスクって反知性&暴力性や加害欲の発現でもあるから、徹底して、「即、避ける」しか解が無い)。
私がマスクをするのは「お上が言ったからではなく」、「客観的根拠からそうするのが合理的だと判断している」から。感染が収束した、ウイルスの特性が変化し飛沫空気感染を気にしなくてよくなった、等「飛沫感染リスクと空気感染リスクを軽減するツールが必要だという判断を覆す合理的な材料が無い」から、どんなにお上やそのお友達のメディア広告業界インフルエンサーが脱マスクを推進しようと、大衆がそれに乗っかろうと、「私は変わらない」。

マスクをすると息が苦しい」は「お気持ち」と「思い込み」の結果。マスクをしたとしても酸素飽和度は下がらないし、「苦しい」という先入観なしに適切な機能性マスクを着用していれば、それまでと変わらず、呼吸も生活も行える。私はギター練習の時にも常にマスク着用の上、歌っていたし、少し前にはDA PUMPのISSAさんがマスク着用でレッスンを行なっているというポストも見かけた(ISSAさんは歌だけでなくさらに踊りもなさっているよね)。
マスクで本当に苦しいのだとすれば、おそらく口呼吸をしていることや、立体マスクやノーズワイヤーの不使用でマスク全体を平面的に顔に貼り付け押し付けていることが要因としては大きく、それら、特に後者は容易に改善可能なものである(性能の高い立体マスクを買えばよい)。口呼吸については切り替えに多少時間はかかるかもしれないが、息苦しさ改善以外のメリットも大きい。「出来ない理由を探すのではなく」工夫調整して取り組めばいいだけのことだ。

マスクと熱中症についても、実際にマスクが上げるのは「表面温度」で「深部体温」への影響はほぼないにもかかわらず、2021年のオリンピック()の時期にはマスク着用を求めていたはずの体制メディア様方は、「自分達がマスクを外したくなった」翌年夏には、熱中症が取り上げられるたびにマスク着用と結びつけ、因果関係があるかのように、不適切な印象操作を繰り返していた。そして5類と共に無事にノーガードノーがマスク定着した2023年には、何故か熱中症とマスクの関連付けは行われなくなった。マスクを外しても熱中症は起こり、マスクを理由にできなくなったからである(熱中症はマスクとは別の次元で起きることなのだから、マスクを外すことではなく、適切な水分ミネラル補給、休息、無理をしないなど、合理的な対策をとるのが必要)。ちなみに、マスクをすると体温が上がるはずなのに、電力不足や節電を呼びかけていた冬には何故か、そのマスクの効果が報じられることが無かったことも忘れてはならない。

つまり、体制周辺のマスクに関する情報発信は全て、「客観性、合理的な根拠を【排した】、自らの【お気持ち】の【恣意的】な表明」でしかないのだ。
彼らが現在、頑なにマスク着用の効果、マスク着用を呼びかけることを避け続けているのは、他人(特に下々)がどれだけ犠牲になろうが構わない(自分にはいつでも手厚い医療資源が保証されている)から「自分が【他人のために】マスクをしたくない」という「マスクをすると苦しい」という強固な「思い込み」による「お気持ち」最優先の姿勢の固持に他ならない。
そしてその体制の「お気持ち」を大衆も「お気持ち」で受け止め、皆で美しくヒロポンインパールの世界、である。自ら玉砕したい方々がそうするのは「当人のみに関わること」であれば構わないが、望みもしない他人がその割を食わされるのは勘弁である。しかし、多勢に無勢。もはやこの世界で流れ弾を避けることはほぼ不可能になった。

SARS-CoV-2ウイルスは「お気持ち」の介在しない世界で、自らをsurviveさせるため、冷静沈着に(彼らにとっての)合理的な適応進化を繰り返している。RNAウイルスであることから変異のスピードも非常に速い。前にも書いたけど、よく人を見て適応しているなと、その優秀さに私はある意味感心している。完全に、穴を突いてきているもん。

JN.1ではその流行ピーク時点でヒラハタ先生とか渡瀬ゆずさんとか、日頃から対策を実践していらっしゃるような方が感染させられてしまったけれども、私はこれは従来の「発症前+発症中」中心の感染連鎖に加えて「急性症状が引いた後」のウイルス排出による感染が増加した結果ではないか、そのcueはノーガード社会化にあるのではないかと推測している。
国内で言えば、お上が恣意的に定めた「5日」ですら短すぎるのに、それよりも早く会社に出てこいと言われる、あるいは非正規雇用で休業=収入減であるため働かざるを得ない、加えて、特に(仕事学業に関係なく)自分の楽しみのために積極的に人混みへ出て行きリスクの高い行動を、同じく高リスク人間と群れて繰り返す、感染後の、「本人的にはもうしばらく感染しないから無敵状態である一方、他人を感染させるウイルス排出量を保った状態で、ノーガードノーマスクでやりたい放題する」魑魅魍魎の激増に、ウイルスが寄せてきている可能性がある(海外も基本ノーガードで大差無い)。そして、ノーガード社会のノーガード達の行動に乗って効率よく感染を回せる形に進化した結果、必死で厳重な感染対策を続け、これまで感染を免れてきた層をも刈り尽くそうとしているのではと私は見ている。
街中で聞く咳の音の傾向からしてもね。常にゲホついてるわけではない、一見問題なさそうなウイルス保有者(急性症状が引いた後とか後遺症段階)が、時々する、さして凶悪でもなさそうな咳でサクッと刈られる人(特にノーマスク)がわりといるんじゃないかな。

「コロナ禍は終わった」「コロナはただの風邪」「5類になったからコロナは消滅した」「ウイルスは存在しない」の面々は「ノーマスク」で積極的に人混みに出る。そして咳が出ようが鼻が垂れようが「ノーガード」で、他人に飛沫を浴びせ(飛沫感染+閉鎖空間であれば空気感染要因)、ウイルスまみれの手であれこれを触りまくる(接触感染要因)。
合理的な感染対策を社会全体で行うという姿勢を体制が積極的に完全に破壊し、公衆衛生が崩壊した今、個人がどれだけ対策をしようと、外出する限り、(辺り一面モンスターに埋め尽くされている、まるでロマサガ1のうんざりする洞窟内のようなもので、敵個体数も凶悪レベルもどんどん上がっているし)あっという間にゲームオーバーになる。

私は殺されるくらいなら自ら終わらせる。泥舟でズブズブと長時間をかけもがき苦しみながら殺されるなんて真っ平だ。わざわざ息もできず光もない不毛な世界で永遠に苦痛を押し付けられliving deadさせていただかなければならない筋合いは無い。

すぐに終われるならいいんだよ。私の場合は自分の手を汚さずにも済むし。
でも、コロナ感染直後の急性症状はほんの入り口で、本丸はSilent killing、見えにくい(気付き・気付かれにくい→理解もされない)、現段階ではメカニズムも治療法もわからない、よりによって循環器とか免疫とか、脳や認知とか、じわりじわり鈍く、確実に生活を蝕む、長期に渡る、回復するかわからない、一旦消えたように見せかけてもまた復活する・しばらく発生しなくて逃げ切ったかと思っていたのに時間を置いて突然発生する可能性もある、厄介な苦痛なんだよ。

「死ななければオールOK」、見えない・見えにくいものは「無かったことにする」でやってこられた人々には到底理解不能なんだろうとは思うけど、"NO HELP. NO TREATMENTS. NO CURE."の世界は、まさしく私がよく知る現実そのものだから、書いておく(おそらく私はまだ一度も感染していないけど)。

延々と続く苦痛の終焉、自らの「終わり」が救済で、それを求めるようになるなんて、思えないでしょ?それは「意味不明」で自分には関係ないことだし、全ては当人の「自己責任」なんでしょ?

今はそんな風に「他人事」の自分も突然、そうなるんだよ。ウイルス曝露量が感染回数が嵩むほど、確率は上がる。

自分の内では深刻な状態なのに「分かりやすく現れていないから」気付かれないし理解もされない。そんなはずはないとか思い違いとか気のせいだとか、場合によっては、できないはずない、気合いが足りないなんて言われるかもしれないね。そして病院に行ったところで確実な治療法も確立されていないし、担当の当たり外れもある。不適切な処置で悪化するリスクもあるよね。対外的に示しやすい診断がつくかも微妙だったりする。それだと配慮を求めてもまず受け入れられないよ。

足元がぼろぼろ崩れ落ちていく。危ないと手をつこうとしてもその先も崩れる。飲まれるよ、深い底なしの世界に。助けなんかね、どんなに待っても来ないから。はじめは待ってみることもあるかもしれないね。でも望んでは破れ、また破れ、していくうちにやがて諦めを知るよ。そして誰も何も、自分も信じなくなる。そのほうが遥かに楽だから。光なんて、どこにも無いから、探すことも、そのうちかつては探そうとしていたことすら忘れていく。

それが絶望、静かな死。"NO HELP. NO TREATMENTS. NO CURE."の世界。

外から見えていることと中にある、中で起きていることは違う。

私は街中でわりと道を聞かれたり手相を見せろとかアンケート調査だとか声をかけられたりするし、普段はふわっとしたタイプに見られやすい雰囲気でいはするけど、実際の中身はこれだから。

必死で覆い隠して、絶対浮上してこないようにあの手この手を尽くして全力で押さえつけてきた絶望と暗黒も、大学以降(時々不穏な気配はありつつも)長い間小康状態だったけど、全然消えてなんかいなくて、扉を開けるきっかけ(元所属のパワハラ、その後その関連でノーマスク)と共に一気に蘇えるようになって、さらに(法人とのやり取りと絶望で)強化された形になって「終わり」までの道を作った。

そう簡単に消えはしないんだよ。どんなにそうあってほしくもね。それを含めての絶望、静かな死だから。

きっとコロナの後遺症も似たようなものだと思う(だから私は絶対、コロナに感染させられたくなかった。そしてそれが理解されることもなかった)。

気を付けて。
自分がそうならないように。そして周りをそうさせないように。
せめて、「理性」が機能する人は。

悲しみに暮れる人がこれ以上増えませんように。
絶望なんて、絶対に味わわないほうがいい。
自分や自分の大切な人がそうならない保証なんて、どこにも無い。


法人は見ようとしなかったし、見えなかったことにするだろうけど、果たして本当にそうだったと客観的に言えるのだろうか。

以下は、「人権委員会」からの「不受理」通知を受け取った後、再申立書を提出するまでの間に同僚の先生とやり取りしていたメール。当時は再申立で「人権委員会」が機能する可能性もあると思っていた(思いたかった)から、「終わり」は見据えていたものの保留状態で、まだ周りとも連絡をとっていた。

法人は「想定した」のではないか。だから重役二人がわざわざ自宅を訪問したのではないか。

画像は3月末に人権委員会からの不受理通知を受け取り、非常にショックを受け、その後4月に入って人事部から着信(用件は忘れた)があったものの応答できずにいた際、人事部から上役お二方が自宅を訪問していたというメールを読み、さらに大混乱を起こし、翌日、自宅・東京から遠方(この時は掛川花鳥園)へ逃げ出したという状況での文面。
私はとにかく逃走癖(?)があり、苦痛から少しでも遠くに離れたいとでも思うのか、一年前「追い出し」時間割の押し付け→合理的配慮と対話の要請/拒絶→大学人権委員会へのコンタクト・申立手続き(書類提出)後も京都へ逃げ出している。
年始(先月)にも「年末に終えられなかったこと」と「右耳がまた聞こえなくなりかけたこと」で突然京都へ逃げ出した

私はプライバシーやセキュリティーを気にするので最後まで粘ってガラケーで過ごした。
お相手の文面は載せられないけど、自宅を訪問したのは誰かという質問への返答。別の先生とは担当の方とのやり取り等についても話していた。この先生にはそれまで窓口の方のお名前は話していなかったようなのに、突然出してしまったところからも当時の混乱っぷりが伺える。相手のレディネス把握とそれに合わせたアウトプットのコントールなんて基本のキなのに。

そしてすっかり忘れていたけど、当時も「耳がおかしくなっていた」らしい。そして地震を懸念している(年始に耳が聞こえなくなりかけた後には佐渡でやや大きな地震が起きた)。
中学での移住後、あの一族の世界の中では鳥(インコ)だけが味方だった。私は鳥が好き。

また一睡もできなかったらしい。訪問を知って眠れなくなり、朝まで怯えてそのまま逃げ出したパターンかな。


「想定できなかった」「因果関係が不明」
そう「される」ことが容易に「想定できる」。

でも、たとえ「もういない人間」になっていたとしても、私のかわりに記録が語るから。
「見ないことにすれば」簡単に黙殺できるものだけど、直接的で分かりやすいものではないかもしれないけど、それでも遺っているから。
見えにくいものも、見ようとする目で、丁寧に整理していけば、浮き上がってくるんだよ。

Silent killed person speaks silently. If someone hears it, it appears. I'm not sure whether it works. But I write. This is the only thing I can do right now.

↑の後の展開は

●人権委員会への再申立書を人事部に提出(4月18日)

●人権委員会から監査への切り替え通知(4月28日)
ノーマスクのいる室内、書面なし口頭通知で結果は6月末になるのではとの見込みが伝えられた。
通知のみ、話し合い無し、何よりノーマスクに非常に強いショックを受け、「終わりの実行」を決める。

●5月までの職場への退職願提出(4月29日)
合理的配慮をしてくださっていた上司、職場に迷惑をかけたくなかった。

●監査遅れについてメール受信(6月13日)
6月末終了見込みのはずが7月に行うヒアリングの日程をこの時期に調整中とのことで、非常に優先度が低く、消極的で、仕方なく、形だけ行う監査になるだろうと判断。ショックで返答できず。チョコレート等を食べまくる過食期に突入していた模様

●ヒアリング可否確認についてメール受信(7月21日)
8月にヒアリングが可能かとの質問に「双方にとって生産的なことになるのか疑問」だと返信(返信必然性があるメールだったので返信したものの、その後「死」を意識した投稿(7/247/25)や「対話」(7/26)、「芝生、山」(7/28)に触れる投稿をする等、引きずられている&過食期に入っていた模様。

●ヒアリング候補日についてメール受信(8月10日)
当日は消耗してギター練習ができなかったらしい。合理性」について書いている。その後、8/11には不眠&血糖値スパイク睡眠(過食)のこと、8/12に「疲れている」、8/13には「虚無」についてを書いており不穏な雰囲気。

●窓口の方と電話(8月15日)
記録が残っていないので詳細不明なものの、おそらく法人対応や監査について抱いている不信感を窓口の方に伝えたのではないかと推測される。話をして少し不信感が和らいだのか、8/16には「3時間連続で眠れた」と書いている。しかし8/17は1時間で起きた&「現実はそう甘くない」だそう。そして8/18にはまた髪の毛を切った模様("Raining"??)。

●ヒアリング日時についてメール受信(8月22日)
付近の投稿に特に大きな影響は見られない。

●ヒアリング(8月30日)
監査担当の方にもマスクのご協力をいただき、聞き取り中に不快な思いをすることは一切無かった。ただ、先の展望や光を感じることも無かった。
現実は変わらない、現実が変わらない限り結論も変わらない、わかりあえることはない、消耗すると記載。
9月はじめも「虚無」期だった模様。

その後二ヶ月ほど法人からの連絡は途絶え、その間、やはり何も実ることなく終わるんだろうなという予感を抱えながら日々ギターを練習している。

●監査報告まとめ日程調整についてメール受信(11月9日)
11/10に返信。11/11はCoccoの「遺書。」11/12はそれまで先送りしまくっていたSavage Gardenの"I knew I loved you"の消化をする11/13はEagle eye cherryの"Save tonight"とだいぶ選曲が不穏になる。

●監査報告日程受信(11月14日)
11/14からは、ギター練習初期に浮かんで弾けなかった曲に取り掛かる等、謎のまとめモードに入った模様。練習から投稿までのタイムラグがより開き始める。

●監査報告日(11月24日)
再び監査担当の方にもマスクのご協力をいただき、会の中で不快な思いをすることは一切無かった。
しかし、「ハラスメント」についても「被害の補償」についても一切の言及は無く、「これで終わったことにされたのだろう」と思う。Sanctuaryは回復せず、生存の理由も生じなかったため、「決行が確定」する。
監査に関する書類の受け取りは一切無し。勿論、人権委員会再申立への回答も、口頭、文書共に無し。
当日、Goo Goo Dollsの"Iris"を歌い、「歌って帰って鍵をかけて少し泣いた」らしい


2020〜2021年度の概要
  References in AY2020
  References in AY2021
2022年度の概要
  References in AY2022
  2023年度の時間割について(行政部文書と返答)
  人権委員会申立書
From middle of nowhere
人権委員会不受理後

「多様性」とはー「批判的思考」、「対話」の重要性(帰国子女受け入れ校におけるパワハラ問題と国立大学費値上げ150万問題から考える)
If
Coda or to the end(3月)
「合理」とは何か
チームとは何か
A farewell&Guitar0218
Guitar0211
Guitar0201
Guitar0122(練習開始後半年)
Guitar1001-2

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