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Guitar0128

数十年の逃亡生活を送っていた指名手配犯がステージ4の癌で路上で倒れ、入院収容された病院で本名を明かしたいと名乗り出た後、ほんの数日で死亡した。
世代的に件の爆破事件についてはあまり知らなかったんだけれども、速報が出た後調べてみて「あのポスターの人か」と思った。交番等に貼ってある指名手配班の顔リスト。特に意識して見ていたわけでもないのに確実に知っている顔だった。大昔のものではあるけど。

「墓場まで持っていく」なんてこともある一方、死を前に、というのはわかる気がする。私も、全く犯罪行為なんかではないけれど、「終わり」を決めた時に、これまで誰にもどこにも、決して外に出してこなかった自身の背景を「表出し遺す」ことにした。
それから鴎外の「森林太郎トシテ死セント欲ス」を思い出した。軍医、作家等、様々な肩書きで広く活躍し、知られた鴎外だけれども、彼はただの石見人、森林太郎として死ぬことを望み、自身の墓にもただ「森林太郎墓」とだけ書いて欲しいと遺志を残した(親友を呼び遺言を書き取らせたという)。
鴎外の(都内の)墓は太宰の墓の斜め向かいにある。私は鴎外はいまいち合わなくて、あまり読んでも調べてもいない。だから何故彼が禅林寺に、ということについては知らないんだけれども、桜桃忌で太宰の墓を訪問した際、「森林太郎墓」も確認した。ひっそりとしかし確かに、それは存在していた。

鴎外のものとも少しずれるけど、私も死を前に、自身の所属は全て取り払った。法人の離職と「終わり」が決まった後、まず考えたのは別の所属のことだった。その時そのことで、よりによって(法人とは異なり)合理的配慮で継続的に支えてきてくださっていた上司や同僚、場に迷惑をかけることになるのは絶対に避けなければいけない。発見された際、勤務先には絶対に連絡がいくし、何より急に私が抜けると業務が止まる。影響が大き過ぎる。だから、時期を選び、引き継ぎをして、きちんと辞めた。
そして完全に全てから取り払われた後に、このアカウントを作成し、「遺す」を始めた。

私の場合は、所属を全て取り払った上で、「私として死にたい」すら無く、その「私」を消滅させたいとでもいう感じになるのだろうか。この身体も名前も、能力も人生も全て、自分で望んだものではなかった。そんなものではなく、何でもないものに、解放されたいとでもいうか。
墓なんかとんでもない。そんなものいらない。

アカウント作成からもうゆうに半年以上経つ。途中で何故かギターを始めることになったり、洋楽と再会したりしながら、だいぶ自身の整理もできたように思う。
アカウント名にもあるように、23年で閉じているはずだった。それがただアクシデントで延びてしまっただけ。

二月は法人元所属における次年度の時間割提示の時期であり、コロナ以降は組織による理不尽や暴力の具現化と関連した退職、死が渦巻く時期となった。
三年前は行政部へ感染対策についての申し立てを行い、振られた業務の大半を断り、そこで組織の敵認定ロックオンが起きた。二年前には九割方退職することになるだろうと準備していた中、左小指を失いかける怪我をした。昨年は退職と共に「終わり」を決めた。今年はもう何も無い。解放の足枷も。

二月が来る。もうすぐ暦の上での春も来てしまう。草花の芽吹きはかわいらしいけれども、この先、未来、継続、予感、その希望、喜びは「生きる」もの達のもの。
「生きる」「生きたい」人々、自分を大切にして生きてね。そしてこの時勢の中ですっかり軽視されるようになってしまったけれども、自分だけでなく他の人のことも大切にしてほしいと思う。他を思いやることは自分を思いやることにも繋がる。他に向けたものは巡り巡って自分に返ってくる。

"I believe in karma, what you give is what you get returned."

さて。ダレンのソロ時代の曲を聞いてみて、「これは好きだ」というものを新たに見つけた。"Dublin sky""I don't care"もそうだったんだけど、サウンドが好きだなと惹かれたものに歌詞も刺さるものが多いのが不思議。そしてそれらはだいたい喪失に関わる曲であることにも、なんでかな、となる。

"Stupid mistake"はダレンがその後10年位、活動休止をする直前に発表されたアルバム"Secret Codes and Battleships"からの最後のシングルカット曲であったらしい。休業前のアルバムという点においては、ある意味、"Affirmation"と近いところもあるのかもしれない。試しにアルバムを通しで聴いてみたんだけど、わりと馴染んだ。そして不思議なのは、やっぱり「鳥」がいること。アルバムのジャケットにも、その他撮影されたシングルカット曲のPVの中にも("Stupid mistake"には完全にダレンのみの出演だからいなかったけどね)。

"Stupid mistake"の映像は鏡台の前でお化粧をしているダレンと、その結果ピエロになったダレンがひたすら撮られているもので、すごくいい。
まず、ダレンのお化粧姿が美しい。私はあんな風にきれいに座って鏡とその中にいる自分に向き合って顔を作っていくことはできない。そもそもろくにメイクをしたことがないし、もっと言えば、鏡台、姿見はおろか、備え付けのもの以外に鏡も持っていない。基本的に自分が嫌いだから見たいと思うことがない、というかむしろ見たくないんだろうな。
ダレンはきっと、ずっとじっと、鏡の前、中の自分を見つめ、向き合ってきたんだろう。素の自分も、装った自分も、装っていく過程も。ポージング、角度、表情、所作、どれも素敵。自分の美しさ、見せ方をよく知っているんだなと思った。そして、だからこそ、その壊し方も。

映像では、ダレンが白塗りにルージュで大きく口を作ったピエロになっていく&その塗っているものを拭い去ろうとしたり、顔を崩したりしている様が描かれているんだけれども、この「ピエロになる」という行為がまた、ね。活動休止前最後にこの映像を撮ったというのにも何だか意味があったのでは、この時期にも(その後Savage Gardenを解散した"Affirmation"の頃のように)何か精神的な苦悩や葛藤があったのではと感じた。

ピエロに関しては、一つには勿論、エンターテイナーとしてという側面もあると思うんだけど、もう一つ、重度のアダルトチルドレンが自分に対して抱くイメージというのもあるのではと思う。
大地主の子どもとして生まれ屈折と葛藤を抱え、あまり酒癖もその他の素行もよろしくなく、幾たびも今で言うOD的な自殺未遂を繰り返した末に最終的には玉川上水に入水自殺した(私は最後のものは彼自身の意思というよりどちらかというと女性に巻き込まれた感じが強いと思っているけど)太宰治も、自身の「道化」について、度々言及していた。
重度のアダルトチルドレンって、自分を捨てて「装い」「演じる」ことでしか防衛や生存が維持できないんだよ。自身を丸ごと認められることも受け止められることもなくて、足場も無い。踏み出せばすぐ崩れ去ってしまうような世界で、難を逃れ、攻撃されずに、とりあえず繋ぐために編み出していくのがピエロになること。
本心を仕舞い込み微笑む。辺りを注意深く観察し、適応する。それが自身の快か不快かは関係ない。とにかくそうしないと、自身を維持することができない。
ピエロだってことも知っている。きっと本当は悲しい。でも悲しいからっていったい何になることだろうか。どこにも救いは無い。だから悲しくても何でも、ピエロであり続ける。自分はピエロだと思いながらね。

"I made a stupid mistake and my world crashed down all around me."

自分の周りの世界は壊れていく。

"Everything is made to be broken."とも似ているよね。全ては崩れて失われていく、自分の場合は(幸せな人は違うんだろうけど)。
重度のアダルトチルドレンは、何もない日常が当たり前に続くことなんて想定できない。平穏、安心、安らぎの感覚に乏しい。
自分を殺してピエロになってみる、そうして手を伸ばしてみるんだけれども、それでも多くの人の当たり前には全然届かない。知ってる、知ってた。そしてその感情もまた仕舞い込んで、もっと厚く、もっと濃く、塗り潰す。

この頃のダレンは何に向き合っていたんだろうか。
そして活動休止後10年で、彼がまた制作を始め、アルバムリリースやツアー等を行った過程か後かで、17年間連れ添った、二人目のパートナーとも破局を迎えたことにも、何だか色々考えさせられる。

それでも彼は深く愛し愛されたいし話したい人なのだと思う。そこは私とは真逆だな。彼の"I don't wanna love"は"I wanna love"の裏返し。あと彼は「話そうよ」「話したい」ということをよく曲の中で言っている。"Secret codes and battleships"からの一本目のシングルカットは"Talk talk talk"だったらしい。
きっとわずかたった一筋でも残る光を、だからこそ、ダレンは強く求めるんだろう。そして生きる。

私には最初から無かった。

そうそう、感情を排して適応するって、ある意味ウイルスの変異と似ているところもあって、だからこそ私はノーガードノーマスクでいられる輩よりもよほどウイルスの挙動(?)のほうが理解ができる。
ウイルスは心を持たず環境に合わせて最適化した形に自身を変えていく。なるべく無駄な労力をかけずに、最も効率的な形で感染を広げ、自身を存続できるよう、合理的な変容を遂げる。

そこから今の状況を考えてみると、ターゲットにすべきは、まずは人口比的にワクチンを二回程度打ち(裾野が広い所に照準を合わせるのが合理的)、そしてその後追加接種を行わず、ワクチンによる抗体がほぼ意味をなさなくなっている層(突破するのに大変なところより簡単に入りやすいところを狙うのが合理的)だろう。
そして、ウイルスはおそらく人間のノーガードノーマスク化にも適応した。最近(ピロラ頃から)は特に、ずっと咳き込んでいるわけではなく、それまで普通な感じだったのに急に咳き込む&その後は多少続いてしばらくするとまた消えるタイプの咳をする人間が増えた。
この形であれば、ノーガード達がノーマスクで、同じくノーガードノーマスクをより感染させやすくなる。
咳は異物排出の意味合いもあるものだから、急性期以降の咳の回数が減ったということは、おそらくウイルスが体内でより安定的に潜めるように進化したのではないか。そして体内でそろそろ排出すべきとなる一定の濃度になった頃(?)などにまとめて咳を出すのではと推測している。

ノーマスク達は感染しようがしまいが自分が出歩ける程度の体調になれば、外へ出てお構いなしに人と接する。そしてノーマスクと連むのは同じくノーマスクであることが多い。元々感染に無頓着な層でもあるし、それでも相手がずっと咳き込んでいたりすれば多少警戒することもあるかもしれないけれども、多くの時間、咳が出ていない状態であれば完全に油断するだろう。そこを狙う。ノーマスクノーマスクに、ノーガードでフレッシュな大量のウイルスを含む飛沫をプレゼントし、それをありがたくノーマスクが受け取る、これで一丁上がり!というわけだ。
ちなみにウイルスは咳や会話以外にも、上気道を介して排出される呼気には全て乗っているからね。ジョギングの荒い息、管楽器に吹き込む息なんかは排出量が多いから特に危険だし、くしゃみ、もっと言えば普通の呼吸にも勿論乗っている。だから、ノーガード達が無頓着に楽しく過ごす間、ノーマスクであればダイレクトに、その排出され続けているウイルスを吸い込み続けているってわけ。時間が長ければ長いほど、積算量が上がる。そしてその吸入量が閾値を超えればめでたく感染発症する。さらに曝露量が多ければ多いほど、重症化や後遺症のリスクも当然上がる。

ノーガードノーガード同士で感染を連鎖させているだけなら本人達の希望に基づくことなので問題はないのだけれども、残念ながら、ノーガードは感染対策をしている人間にもウイルスを撒き散らし、感染を拡大させていく。
「屋内」「人混み」でマスクと言われるから、それ以外では必要ないと思ってしまう人も多いけれど、屋外だって飛沫は飛ぶし、それがたった一人であったとしても感染者にフレッシュな大量ウイルスをお見舞いされれば容易に感染させられる。人通りの少ないところにだって、突然現れ咳をかけてくるノーマスクも、ジョギングで荒い息をかけてくるノーマスクも出没する。

マスクをしていたのに感染した」「マスクに効果は無い」の主張は、マスクの有用性とそれに合わせた適切な使用がわかっていない、「使いよう」の道具を使えていない層の、「自分が他人のためにマスクをしたくない」と無理矢理理由を作るためだけだけの言い訳である。

マスクは、適切な使用を行えば、安価で自他の感染リスクを下げられる、非常に有用な感染対策の基本のキである。勿論、マスクだけで完全に感染を防ぐことは、残念ながらできない。マスクは飛沫のブロックには有効だが、エアロゾルには太刀打ちできないから。(そのため、長時間、特に大人数と場を共有しなければいけない学校や職場では換気など、特に空気感染対策を意識する必要がある。)

しかし、マスクに加えて他の対策も組み合わせて感染を抑えていくことは極めて重要であり、この野放図の社会の中では、相手と接する際のリスク判断のためにもマスクは有用である。
マスクの着用有無、また着用の仕方はもろにその人間の感染対策意識を具現化している。ノーマスクはもとより、顎掛けという究極の「やってる感のみ」の愚行、鼻出し、素材ではウレタンはほぼノーマスクに等しい(「やってる感」なら、チラシやレシートの裏に「マスク/感染対策してます」とか「ウイルス退散」とでも書いてデコにでも貼っておけばよろしい。効果は大して変わらない、言い換えると意味はないから。)
つまり、「適切なマスクの着用が(を)できない/行う気がない」人間からは、近距離に寄るとフレッシュな高濃度飛沫を浴びせられること、場や時間の共有によってエアロゾルのウイルス曝露量がかさむことにより感染させられるリスクが極めて高いので、「自分からは寄らない、避ける、近づかれたら離れる、息を止める、(目鼻口という主な感染ルートがある)顔を飛沫を受ける位置から背ける、同じ空間にいない」ことが肝である。

ウイルスに心は無い。感染にお気持ちは関係ない。「やってる感」はウイルスに通用しない。ウイルスに忖度は無いのだから。
相手に合わせた適切なアプローチで感染を防ぐことで、自分もその周りの人も守れる人が、少しでも増えればと思う。

ウイルスの立場からすればね、おそらく彼らは"with human(who is willing to be with covid-19)"の形をとったんだと思うよ。"with コロナ"で仲良くしたがっている人間にくっつくほうが、そりゃあいいよね。賢い。


梅、咲いているかなと芝生に行ってみたら、マスク越しでも辺りに甘い香りが漂っているのがわかった。人がいない時間帯だし四方が開けていて何度も見回したけどどこにもノーマスクはいなかったから、マスクを外してお花の甘さを深く吸い込んだ。梅の香り、好き。

写真だと全然見えないよね。だけど私は自分の目ではもう少しはっきりお花を見ることができた。勿論昼間の明るいうちに、もっときれいに見たいという気持ちもあるけれども、ノーマスクがいる危険な中よりも、暗くても安心してゆっくり楽しめる時のほうがいい。そして、私はこれまでにももう何度も、そのかわいいお花達を眺めることができたから、たとえ闇の中でくっきり見ることができなかったとしても、その姿を頭の中に描くことができる。だからこれでいい。

私はもう充分、色々見て、聴いて、味わってきたから。もう充分。

紅梅は白梅より遅くて、まだまだ蕾だった。あと少しだね。がんばれ。




この方はおそらく音楽の先生。しかも「今日の勤務校」っておっしゃっていたから、おそらく非常勤の複数校掛け持ち。本当に、お察しする。
私、退職しなかったらあのノーガードの中で確実に今年度中に2、3度感染させられただろうし、それで自己責任にされただろうし、きっと発狂していたと思う。
子どもこそ、感染させちゃいけないんだよ。本来は。
さすがニュージーランド。
私も店員がノーマスクの店は使わないし、客層が悪い激安店等は使わないことにしている。ノーマスクが多いから。
上洛中も、以前は贔屓にしていた亀屋良長には一度も行かなかった(7月に店員が全てノーマスクだったから)。花びら餅も、毎年買ってきたけど、今年は買わなかった。定期的に取り寄せしていたのもやめた。


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