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法人対応について(広報と実情の乖離)

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元所属(帰国子女受け入れ校)や法人におけるパワハラとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。
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以下は法人公式サイト内のスクリーンショットである(現在法人名は伏せているが、その時には開く。そして、しかるべきところに繋ぐ。私亡き後、この件を検討してくれるのではないかという当事者性の高いところに)。

赤線部分は筆者の案件(高校内のパワハラ、ハラスメント、追い出し→退職)や人権委員会申立・再申立に関わる部分である。特に再々申立書の内容及び法人対応と照合し、以下の広報内容と矛盾が無いか、外部及び卒業生等に"critical"に検証していただきたい。
私は内部で検証され解決できることを強く願い、そうならない場合には経緯を外に開かざるを得ない、それは望まないと何度も法人に伝えてきた。法人の答えは"NO"もしくはそれですらない「無回答」であった。つまり取り合わず黙殺抹殺の自己責任で一件落着「とした」わけだ。私が捨て駒の「非常勤講師」であったから(この場合は身分差別)。もしくは私が私であったから、ということなのだろうか(この場合は特定個人への差別)。
本人が議論に加われないのは残念だが、全ては仕方ない。それが法人対応、法人の人権感覚及び(ノー)コミットメントがもたらした結果である。


ここでキング牧師(Martin Luther King, Jr.)のことばを引用しておこうか。
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"Our lives begin to end the day we become silent about things that matter."
起きていることに口をつぐむようになった時、生は終わりへ向かい始める。

"The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people
but the silence over that by the good people."
究極の悲劇は悪人による圧政や残虐さではなく、善人面した者によるそれらへの沈黙である。
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参照
以下記事内で掲載されている筆者側の資料は、ガラケー送信メール文面以外、全て「人権委員会に提出済みの(=監査にも用いられ、法人が把握している)もの」である。混乱した状態で急いで作成したため、誤植などがあったりもするが、形を変えないためそのままとし、マスキング以外の加工はしていない。
法人は離職理由(パラハラ認識による自己都合)設定への「意義あり」の時点で、経緯はハローワークが判断するものだと伝達してきたので、筆者が人権委員会に提出した(本サイト内で掲載する)資料を外部に開くことを認めている。筆者が論証に用いるのは「公開を承認された資料類」と「法人が公開している情報(広報)」と「筆者個人のメール文面」のみである(お相手の返答は載せられない)。
高校の内部事情に関しても、校内の成績のつけ方や推薦枠についてなどの機密については記載しないし、組織の歪んだ点については多々見聞きしてきたことはあるが、本件に直接関係のあるもののみしか記載しない(しかし、「監査が終わった後」に人事部には伝えた)。
筆者の目的は私怨でも他人の弱みを利用して自分を優位な立場に持ち上げるようなことでもなく、そのようなことを含むマルトリートメント、理不尽や暴力の構造を少しでも解きほぐし、犠牲者を増やさないことである。そのための「合理的」な範囲内のみで、筆者は記述する。
筆者が重んじるのは「理」である。吐くほど、死ぬほど、「理不尽」や「暴力」の世界を知り絶望した者だからこそ。

From middle of nowhere
Let's get fair. (元所属について良い点と向いている層)
不合理ではないの不合理ー専門性全否定の行先
2020〜2021年度の概要
References in AY2020
References in AY2021
References in AY2022
2022年度の概要
2023年度の時間割について(行政部文書と返答)
人権委員会申立書

チームとは何か
「合理」とは何か
人権委員会不受理後

●大学ホームページ内の広報

世界人権宣言に署名させる環境下で、マイノリティー(感染リスクを気にする広報通りの日本語支援をと物申す非常勤講師という組織の敵)に対する報復(いくら苦痛だと伝えても変わらない研究室内のノーマスク及びせっかく開けた窓やドアを閉める換気妨害予め受けもてないと伝えていた条件人数の多い発話を伴う授業「のみ」を割り当てる形での追い出し)により退職させるという人権軽視や人権侵害が行われ、さらにそれをよりによって「人権委員会」が黙認するのいかがなものか。一連のできごとを人権委員会不合理ではないとしたというのは、法人の人権感覚としてそれらが許容されるものだと示したことになる。それは以下の広報メッセージと矛盾していないだろうか。

「自分の社会の文化や常識を当然視することなく」ーノーマスクが当たり前、あるべき姿であると他人に感染リスクを強いること、「構成員が安心して過ごせるキャンパス」ではないと「対話」を求めた「非常勤講師」という構造的弱者を強者の目と合理的根拠なき「お気持ち」のみで切り捨て、「自己責任」で法人が一件落着させたことはどう考えればいいのだろうか。

非理性的な力の支配(組織の敵を追い出すための理不尽な時間割やそれを生み出す行政部専任による暴力的な権力濫用、差別的まなざし)に抗い、理性的な判断(合理的な理由の表明と共に無期雇用者の雇用維持)を求めた申立を、妥当な根拠説明も一切示さないまま「不受理」にし、その後の再申立に関しても、規程/既定の手続きすらふまえずに逸らしかわし、文書一枚すら出さずに「全て無かったことにした」法人手続きと一貫性のあるメッセージだろうか。

「人権擁護」していると根拠もなく主張するだけで「そういうことになってしまう」組織なのだろうか。高校だけでなく法人全体が。コミットメントは対外的なアピール=広報のみ、あるいは学生やフルタイム職員にのみ人権は認められ、「非常勤講師」には認められないものなのだろうか。申立でも何度もその点に触れてきているが、結果は「無視」である。

常に強い立場の「お気持ち」や「ご都合」「のみ」が優先された「不受理」や「無視」の中に「対話」はどこにあったのか。「不寛容」しか無かった。

人権侵害は認めなければ「無かったことにできる」ものなのか。加えて、人権委員会が「認めずに回避した」パワハラの存在を、法人が離職理由に「利用した」こと及びその点について求めた「対話」を「無視」され続けたことはどう説明できるのか。構成員が安心して過ごせるキャンパスを確保する責任はどこへ行ったのか。「地位・立場を利用したあらゆるハラスメントは許されない」のではなかったのか。あるいは「認めなければ」解決した「ことにできてしまう」ということなのか。そもそも感染リスクを軽減しより安全に持続的に就労したいと求め続けたのが筆者の申立であるが、「安心」は「非常勤講師」には求められないものなのか。

「地位や立場の違いを利用して」「就労の場における不利益を与える行為」は本当に無かったと言えるのか。上司(行政部専任)と部下(非常勤)的権力差、多数者と少数者(感染対策をしたくない組織と感染リスクを下げたい非常勤講師)が両者間にある力関係の中で、構造的弱者である非常勤講師が「排除」されたわけだが。リスク軽減のためのクラスサイズ、マスク着用が達成されない環境下で授業が行えないと2020年から何度も何度も訴え、提示した人数越えたクラスサイズでのノーマスク環境での授業を行えと命令され続けたことについて、「相手の意に反する」ということは「行為者の判断ではなくて、その行為の対象者に判断が基準になる」のではなかったのか。「自分の思いや気持ちを押し付けていないか、相手がどのよう考えているのかを推し量る力」とは何なのか。人権侵害、パワハラに「そんなつもりはなかった」という言い訳は受け入れられないのではなかったのか。

権力を利用した不当な言動(追い出すための不合理な時間割設定)、重要な情報を与えない(2020年2022年)、働く権利を侵害する(辞めさせる)、権力乱用、権力関係、全て本件に当てはまるはずだが。「大きな権限を持つ者が権力を乱用しているとわかっても、その部下や同僚が沈黙をする」ー高校専任行政部よりさらに上の立場の法人執行部が「消極的協力者」として理不尽に加担し強化し「無かったこと」「自己責任」にして片付けたことは、法人が消極的協力者から積極的加害者と化してハラスメント及び解雇を完成させたことになると言うことができよう。

ここにある記述をそっくりそのまま、高校行政部専任人権委員会法人執行部にお返しする。「ご指摘には当たらない」で逃げ切れる、「無かったことにできる」組織なのか。

相談者(筆者)の主張を前提に、相談者の意向を尊重して問題の解決がはかられたことは一度も無かった。「不受理」通知に関して求めた「合理的な」根拠、説明は一切無かったわけだが、「通知」するだけすればそれで問題は無かったことにされ解決できたことになってしまうのか。
「通知」ごときがあったところで「敵の追い出し」という組織の目的は達成され、何のお咎めも無かった、むしろ法人の「問題無し」との「お墨付き」を得たと、圧政が強化されることにすらなり得る。最悪の形であるしそれを再申立でも記載したが、結果は「無視」である。
つまり、高校と法人は「(排他的な価値観を共有し、多数派以外の意見は無視して切り捨て、自分とそのお仲間内にとって快適な環境を作ればよいという)同じ未来を見ている」ということであろう。

赤線部分をそっくりそのまま高校行政部専任人権委員会法人執行部にお返しする。

●人権委員会の規程

まさに「職場における優越的な関係を背景に、非常勤が何度も苦痛であると伝えた、専任による研究室内のノーマスク、換気妨害のあえての継続により精神的苦痛を与えられ、就業環境を害され続けた挙句、行政部専任が設定した「辞めさせるための時間割」で見事、組織の敵の非常勤講師が「追い出された」わけだが、それが「パワハラではない」というのが「人権」を重んずるはずの法人の判断である

繰り返しになるが、ペラ紙一枚にも満たない通知はあったが、妥当な説明がなく、それを求めた再申立は「監査」へのすり替え(徹底した「人権問題」の「回避」)という形で揉み消された。

異議申し立てに対しては回答をしなければならないはずだが、何の書類も出ていない。初回申立では「通知」が高校行政部に行われたはずだが、筆者が求めていたのは以下の「調査」と「調整」である。

きちんと起きてきたこと、不合理な時間割の異常さを理解できる、日本語教育やカリキュラム設定に関する知見を持つ「教員」に、検証をしてほしいと、何度も伝えたが回避された。
人権委員会内では検証できなかった「不合理」を知見を持つ方から報告していただき、「調整」で雇用、無期資格、福利厚生の復活を行ってほしいというのが筆者の再申立であった。完全に無視されたが。
叶うのであれば存命中にきちんとした対応や説明を受けたいと思っていたが、残念ながら一切の見込みが無いのでこのような形と相成った。

行政部専任は「手厚い語支援を主張する環境下で、日本語教員養成を経ていない国語科教員に日本語演習と現代文L4を当て、日本語教員養成を受けた日本語科教員をあえて外した」不合理で不当な時間割について、「お気持ち」以外の回答を出さなかった。これは人権委員会再申立からすり替えられた監査においても同様で、ご担当の方も2023年度の時間割設定提示過程については首をかしげていらした。つまり、高校は合理的な根拠も示さず/示せず「この道しかなかった」と「お気持ち」を主張し続けたのだろう。これは実質「事実調査に応じない」と同等であり、これを法人が受け入れ是正しなかったということは、法人執行部は高校行政部専任と同じまなざしを共有しているということを示唆している。「同じ未来を見ている」のだ。すなわち、捨て駒の非常勤講師が権利を求めるなど言語道断で、そのような敵は粛清すればよいという価値観の共有である。「人権」を尊重する法人だと主張しながら。

繰り返しになるが筆者が求めたのは「調整」で「無期」と「私学共済」を復旧させる形での被害補償である。法人は断固これをしたくなかったので、人権委員会での扱いを回避したのだろう。

●人権委員会、人権相談連絡会が開催している人権セミナー等

当事者間に内在する文化の違いー国語教育と日本語教育行政部専任と非常勤講師、法人理事と非常勤講師の視点の差、その結果起きた「間違い」(感染者情報の隠蔽私学共済脱退案件)や不合理(日本語科に日本語演習を担当させず、雇用の継続を求め続けた無期雇用者法人が自己責任で排除したことをどう捉えればよいのだろうか。
自分の中に内在する文化に気付き異文化に対する理解を深める、多様性、対話とは。

構造的弱者、マイノリティーとして感じてきたこと(感染リスクを軽減し安全に持続的に労働したかった非常勤講師の視点)は何度も伝えてきたが、全て無視された。行政部専任法人執行部という「強者、マジョリティー、メインストリーム」が、その文化を中心に物事をみて、弱者、マイノリティーの非常勤講師という捨て駒を見事排除した結果となった。

多様な価値観を持っている構成員(感染させられたくない、たとえ給与が下がったとしても脅かされずに行いうる業務で無期雇用者として雇用を維持したいと何度も訴えている非常勤講師)を、パワーのある立場にある行政部専任法人執行部が排除したこと、その過程が個の尊厳を傷つけているという訴えに一切取り合わず無視したことは「世界人権宣言を重んじる大学法人、人権侵害のない就労環境」を主張し続ける組織として適切なのだろうか。
筆者は「(感染リスクを下げ)安心して過ごせること(それが不可能な場合は給与が下がっても脅かされずに行いうる業務)」を、「無期雇用者」としての「合理的配慮」を、「実現可能性のある範囲」で求めただけである。

たとえ無意識であってもハラスメントの加害者になりうると、各種セミナーでは繰り返し伝えられている。「そのつもりはなかった」で逃げられる問題では無い。
あるいはセミナーを開催してさえいれば、それと真逆の実情があったとしても黙認し「無かったことに」できてしまう集団なのか。

「世界人権宣言」「人権侵害のない就労環境」「構成員が安心して過ごせるキャンパス」、定型句となっているが、形骸化していないか?実態を伴わず根拠のない主張を繰り返せばそういうことに「できてしまう」ということか?
まったくもって、高校行政部のやり口と同等である。「同じ未来を見ている」のだろう。

「全構成員が被害者にも加害者にも傍観者にもならない」ー高校行政部専任及び法人執行部は加害者であるが人権委員会も人事部監査室も傍観者である。
何の解決も、はかられなかった。

平和、和解など存在しない。現実は闇。希望などない。
出自に関係なく人々の困窮と苦しみを軽減するために一人ひとりが積極的に参加する必要性、ね、、

対話は高校行政部、法人執行部とは一切成立しなかった。人権相談員、人事部、監査室とは個別には成立したが、そこから何も発展がなかった。
全て加害者と傍観者である。

●職員の声として掲載されているもの

この中に非正規雇用はおろか、フルタイムでも任期付の方のものは含まれない。それ自体はある程度合理的なことではあるのだが、法人にとっての「職員」もしくは「仲間」は「無期でフルタイム」の教職員及び役員【のみ】なのに、あたかも非正規雇用にも同等の状況がある【かのように演出して見せかけている】発信の仕方、現実との乖離はいずれかが是正されるべきである。

大学の使命(建学の精神、理念)、様々な価値観、よく話を聞くー全て、筆者の申立内で取り上げられていることだが、法人は無視を貫いた。規程に基づく手続きすら行われなかった。それは筆者が【非常勤講師】だったからなのか、あるいはそもそも立場に関係なく全てが形骸化しているからなのかはわからない。

多様なバックグラウンド、大学の理念ー筆者の感染リスクをつきつけられ続けることについての恐怖は人権委員会で伝えており、高校での授業が行えないのは明らかなのであるから(行政部が絶対に日本語演習を持たせないため)一時的に共済を抜けることになったとしても「無期」の資格を維持し法人内で行える業務を担当しながら対話を続け、問題解決の道を模索したいと申し出たが、全て無視された。
「無期雇用の維持」「法人内での業務の調整」を拒絶するために、人権委員会から監査へ手続きを逸らし、さらに執行部のみの機密案件でブラックボックス化し、「不合理はない【ことにした】」問題を「教員の目」に触れないようにしたのだろう。

国際色豊かで多様な人や知が集まる?ー高校行政部及び専任法人の対応は、自らと異なる背景や考えを持つ者、「お仲間」ではない捨て駒(非常勤講師)を徹底的に排除し切り捨てる形のものであった。
閉鎖性の高い外部の目からの検証を困難にする形で極めて権威主義的村社会的な力学のもとに一連のことは起きた。筆者はこれは建学の理念への冒涜ではないかと問うたが、それすら無視された。【人権を持たぬ者は徹底的に無視すればよいとのことなのだろう】。

寛容とは何なのか。様々なバックグラウンド持つ他者の意見に対して「拒絶」しかなく、耳を傾けることも無かった組織の広報として、このようなメッセージが掲載さえているのは不適切である。国籍も、これまで背負ってきたバックグラウンドも異なる多種多様な人々がいたとしても【自分(達)の価値観が絶対で】揺さぶられることなどなく、切り捨てればよいというのが、高校及び法人の一貫した対応である。

●情報公開について

透明性の高い運営と積極的な情報公開という点から、本件をどのように位置付けているのだろうか。執行部のみの機密案件にし、適切な目や知見を持つ方への開示と検証を依頼したにも関わらず一切行われず、全て【お蔵入りさせて、見えないところで閣議決定して、無かったことにした】わけだが。

教養、国際性、文化の違いを超えることー大学の時は、それが息づく環境だと思っていた。
今では全てが虚しく響く。
言語教育は、大学設立のきっかけになったものでもあったのに。
次回の大学認証評価はどうなることだろうね。

自己点検に「学生」や「フルタイム(任期なし)教員」の目や声は反映されても、捨て駒の非常勤職員の労働問題などが取り上げられることはない。つまり点検されることはない。それがいくら建学の理念法人の広報に背くものであったとしても。

公益通報制度、考えたこともあったんだけど、「人権委員会」人権侵害から下りるような組織だから同じように形だけで機能などせず、再び絶望するだけ不毛な事態になるだろうと思い、結局使わなかった。

「遵守」しているものだけを取り上げる出来レース的な点検に何の意味もない。
「遵守」以外のものを作らないように、あえて、問題からは目を逸らし、認めず、正規の手続きから外す、書類すら残さないということを徹底したのだろう。
監督機能とは一体何なのか。形だけで「監督している」と主張すればそれが通るものなのか。


一連の出来事は本当にハラスメントではないと言えるものなのか。そうだとしたらどのような判断からそう認定しうるのか。
「人権」「多様性」「国際性」「対話」の尊重を主張する法人による、正面からの合理的な(公式ホームページ、人権委員会主催の人権セミナーの内容と照らし合わせて矛盾無い)説明を伺ってみたいたいものだったが、一貫して「回避」「無視」された(規程上の扱いすら無く紙一枚すら出さずに「無かった/終わった【ことにした】)ことについてはどのように考えればよいのだろうか。

これは筆者が非常勤講師という捨て駒だったから起きたことだったのだろうか。あるいは存在の必要が無い筆者だから起きたことだったのだろうか。前者の場合は身分差別、後者の場合は特定個人への差別を法人が行ったということになりはしないだろうか。

もしそのように差別的な法人であったとしても、(建学の理念からすれば完全のアウトで不適切な状態だと筆者は考えるわけだが、それでも)法人が「現状と乖離無い広報」を行っているのであれば、(理想と現実というか、昔と今というか、残念だとは思うものの、)その「今」を基に各人(特に受験生)が判断を行っていけば、より適切な場を探せばよいだけである。
問題は、広報上ではきれいで魅力的な文句を並べ飾り立て、過剰に良いイメージを装い演出している一方で、実情は真逆の人権侵害を行い、受容していることで、これはまさに、高校の日本語支援の件と、全く同じ構造なのである。

不適切な現状があったのであれば、その現状を改善すればいい、不適切な広報があったのであれば、その広報を是正すればいいだけのシンプルな話である。
人権は「学生」や「任期なしフルタイム教職員」に存在するもので、「構成員」の定義も同範囲を指すのであれば、そう示せばよい(規程も修正すればよい)だけである。その場合は、あたかも、キャンパスで過ごす者全てに人権が保障されるような「誤解を与える」書き振りで「幻想」を与えるのが問題なのだ。「正面から」、「非常勤講師、派遣労働者、下請け雇用者などは人権を認めない下僕である」と言えばよい。ただし、一般的にはそれを「人権を尊重する」法人だとは思われないだろう。

大学の環境は、良かった。大学の「今」については私は直接判断できないけれど、おそらく私の頃と大きく変わってはいないのだろう、と、思いたかった。

*以下は大学公式ホームページではなく、公式内で広報されていた「THE 日本大学ランキング」のページからのスクリーンショット

対話、多様性、批判的思考

一つの角度だけから物事を見るのではなく、自分の考えを周囲に押しつけるのではなく、自分自身にも批判的思考を向けながら対話を重ね、多様性を受容する豊かなー法人であってほしかった。

筆者は授業内の生徒との対話以外で、相手にマスクを求めたことはない。
授業=業務として必然性のある場面以外では、相手を変えることなく自分が、マスクをしない人間と対面しないように、少しでもその時間が短くなるように、全力で「回避」することで感染リスクを下げればよいからである。
2023年度の5類化にあたっても「学校全体」「マスクをしたくない行政部専任」にユニバーサルマスクを求めることが不可能であることも当然理解していたし、「学校として授業で生徒にマスクを求めることを禁止する」という方針についても、それに異議をとなえはせず、「その場合は(既にラポールができている生徒が受講してマスクを求めなくても相手が着用してくれることがのぞめる)3年日本語演習のみが担当できる講座なので、【無期雇用者として】現状行いうる唯一の講座を担当させてほしい」と申し出た
真に多様性が尊重される環境であれば、「マスクを外したい者」だけでなく「感染リスクを下げるためにマスクを必要だと考える者」を排除するのではなく、中に置いた上で対話を続けながら互いのbetter wayを模索したはずではないか。
勿論、講座を持たせなかったのは高校行政部専任だが、筆者は人権委員会への再申立で「高校」「授業」に固執せず、【無期雇用者として】「法人内で行いうる業務」を担当しながら、一時的に私学共済を抜けることになってもかまわないから、【対話を継続し】資格の回復や諸々の状況改善の糸口を見つけたいと伝えている。それを最終的に【法人が全て無視した】のである。しかも、執行部以外に全く見えない独立機密案件、ブラックボックス化した上で、密室で閣議決定を行い【全て無かったことにして解決、したことにした】形で。

自分と同じようなバックグラウンドの人ばかりと話していると、頭が凝り固まりますよね。

任期無しのフルタイム職員の重役、各界(主としてビジネス分野)で活躍した理事会、「選ぶ者」「使い捨てる者」「圧倒的な権力を行使できる強者」の密室の集まりで、「捨て駒、下僕」の「非正規雇用者」の立場が想像しうるのだろうか。現に、2021年の私学共済脱退通知の件でも、筆者の資格継続希望意志を「知らなかった」と通知が来ていることからも、同質性の高すぎる「強者」の集まりでは「異なる視点」が想定されなかったか、あるいは想定した上であえて踏み潰す「閣議決定」がなされたのだろうと思わざるを得ない。

対話とは何なのか。多様性とは何なのか。

筆者は「伝わらない」から「伝えよう」と何度も試みた。行政部へも、法人へも、説明をした。根拠と共に、合理を求めて。全て無視されたが。
学生の時は、仲間とも先生方とも「対話」ができた。「対話文化」は確かに存在した。
学生には。大学では。

「非常勤講師」には対話も多様性も認めないということなら、そう示せばいいだけだ。「人権を尊重する法人として、正面から」、「非常勤講師は人間ではない、人権は認めない」と。

私は自分の足りないところを自覚している。自分が完璧だとか正しいだなんて全く思っていない。とんでもなく屈折して偏屈で何も誰も信じることもできず傷口が開けばあっという間に暗黒の底なし沼に引き摺り込まれるようなどうしようもない人間だ。(だから、重度のアダルトチルドレンとして装うことには慣れているけど、「善人面」や過度な演出はしない。上辺だけ、形だけの集団、理不尽、暴力、ループには吐き気しか無い。同じ次元に堕ちたくない者だからこそ、自分にできる範囲でなしうることを行い、現実に合った姿、形であることしか私にはできない。)

それでも、あのキャンパスの中では、自分にも人権が認められて、存在の全てを打ち抜いた絶望も、いくら離れようにも切りきれない呪いも、振り払っても振り払っても雁字搦めなことには変わりないけれど、それでも、何とか、息をして、よりよい未来を作っていこう、自分にできることを、他者のために、ここで得られた恩恵を還元していこうと、思えていたんだ、かつては。


違ってほしかった。何度も思った。けれども全ては無駄で不毛だった。
だから、
私は「終わり」を受け入れるよ、ダレン。"new day"なんてあるのかな。期待なんかしない。

"I believe in karma, what you give is what you get returned."




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