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「合理」とは何か

2016年に「障害者差別解消法」の改正によって教育機関での「合理的配慮」が求められるようになった。

「合理的配慮」とは、困難を抱える者もそうでない場合と同じように存在していけるための「合理的」な範囲の「過不足ない」支援を指す。

義務教育以降の「選抜」を経て入学が決まる教育機関においては、一般的に、その機関に入学可能な能力技能を保持しながらも、それ以外の面で(例えば身体的精神的に)就学に困難が生じる場合に、そのバリアを取り除かねばならないということになる。(勿論、知的障害や学習障害等の方々の権利保障についても熟考していくべき課題ではあろうが、ここでは割愛する。)

そのため、例えば、私が「京都を愛しているし草花が好きだからどうしても京大農学部に入りたい」と自らの「お気持ち」を主張したとしても、それは「合理的な理由」にならないため、認められない。
私は高校時代、家の環境的に全く学習に向き合える状態ではなかったので(自分の意思に関係なく「学区首位」という理由で出願校を決められ通学する気も乏しかったのもある)、高校時代の学習内容、積み上げ型の知識が身についておらず、国立受験に必要な多科目で満遍なくセンター試験で高得点をあげることはとてもできなかった。また、そもそも特に数学、化学など農学部のカリキュラムをこなしていくために必要な教科は苦手で、入学後の学びの基礎がある状態ではなかった。(高校時代の積み上げ型カリキュラムの習得がほぼ0状態の私に選択できたのは実質的に、入試で積み上げ暗記型知識を問うわけではない、かつて私が在籍していた大学と、もう一校、英・国二科目試験のうち習得ほぼ0な古文を英語と現代文でカバーする形で合格した文学部のみだった。)
つまり、京大(学部)の入試を突破できず、入学後の安定的な学びが見込めない人物を「合理的配慮」の名のもとに無理矢理受け入れさせようというのは「合理的」でないため受け入れられないし、それを差別だと主張することも適当ではない。

能力的にはその教育機関で学んでいけるはずの人物が、それ以外の要因で学びを阻害される場合に、そのバリアを適切な範囲で取り除きましょうというのが、高校以降の教育機関における「合理的配慮」の基本的な考え方である。
詳細は文部科学省(https://www.mext.go.jp/content/1420840_05_2.pdf)やJasso(https://www.jasso.go.jp/gakusei/tokubetsu_shien/shogai_infomation/handbook/index.html)の資料などでご確認いただくのがよいかと思う。

かつて私が通った大学では古くから視覚障害のある学生を受け入れていて、学内には点訳サークルがあったり点字プリンターがあったりもしたと思う。また、筋ジストロフィーの学生が在籍していたこともあって、お母様と車椅子で学内を移動する姿をよく見かけていた。おそらく近年は発達障害系の支援ニーズも高まっているのではないか。

「合理的配慮」は教育機関・対Studentsだけでなく、事業者・対労働者にも求められている。これまでは努力義務、4月からは法的義務である。

コロナのパンデミックに際し、私は労働者として持続的に任務を果たすための「合理的配慮」を二つの事業者に求めた。
そのうちの一つ(5月までの職場)とは「建設的対話」が成立し、上司の協力もあり、私が勤務を続ける上でバリアとなる条件を「合理的な範囲」で取り除き、安定的に働くことができていた。しかし、もう一方の職場(法人)は、まずは元所属下で継続的なパワハラ体制によりまずはPTSDの悪化フラッシュバックの再発と呼吸困難を引き起こさせ、その後行われた積極的な「追い出し」も含めたハラスメントへの対応拒否により、生の基盤も心的な支柱も破壊し尽くした結果、私は前者での勤続も不可能になった。
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帰国子女受け入れ校である元所属(高校基督教大学高等学校、通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)「人権」や「多様性」を謳っているはずの国際基督教大学(通称ICU)法人における感染対策にかかるパワハラ追い出しとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。
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法人においては、そもそもハラスメントや「追い出し」をかけてきた元所属は一貫して、「下僕」である「非常勤」となどとの対話は拒否するという姿勢を崩さなかった。

私は2020年度の段階で

在籍人数が多く、授業内の口頭コミュニケーションの必然性の高いクラスは(校内で適切な感染対策が取られていない中で)担当できない

と翌2021年度の該当講座(割り振られた12単位中の9単位)を断り、2021年度秋にも2022年度について同様のことを行政部に伝えていた。当時は(専任達は「外から見えないところ」でマスクを外し実質ノーガードだったが対外的には「マスク着用」の環境であったにもかかわらず、である。)
その際、行政部「学校が割り振った講座を全て受けるかあるいは受けないかの二択しかない」と通告してきたので、私はそれまでと同様、「在籍人数が多く、授業内の口頭コミュニケーションの必然性の高いクラス」が割り振られるだろうと退職をするつもりでいた。そして、2月にバタバタするのは双方にとって不毛であろうからと、(行政部とは一切対話不可能であるということが明らかだったので)時間割を設定する科の専任に宛て、

私は勤務を行う上でこのようなところ(主に担当講座の人数、授業準備で長時間滞在せざるを得ない研究室の無換気ノーマスク)に苦痛を感じている。そのバリアを対話の上、調整していくことができるのであれば、可能な限りの譲歩はするし、感染対策等に思うところがあったとしても勿論授業に私情を持ち込むことはせず尽力する。対話が不可能なのであれば返答は不要である。担当はできない。

と書面を渡した。その後、返答は無かったので、退職に向けて荷物整理を始めていた(これが「退職と死が渦巻く中で左小指を失いかけた怪我をした」時期)。

私は10年以上、「私の所属科の行う講座+一般的な科目の一年生9単位分」という組み合わせで11〜14単位(私の所属科の行う講座の開講有無によって変動)を担当していた。一年生の科目はレベル別開講であり、私の担当レベルは春学期の在籍者が一番多く、そこから適宜他レベルへ送り出していく形だったので、特に春学期のリスクが高く、そこを持ち堪えられないということで担当を降りた経緯がある。

2022年度に割り振られたのは「私の所属科の行う講座3単位+一般的な科目のニ年生6単位分」だった。二年生であれば、一年のうちに他レベルにだいぶ移動しているので、在籍人数が少なくなっているはずだと思った。そして実際の人数を確認すると、私が「これ以下であれば(換気マスク等の環境コントロールと組み合わせれば)授業を行っていけるだろう」と提案していた人数に収まっていた。
そのため、行政部とはだめでもとは(返答は無かったものの)一定の対話は成立したと判断される状況になったし、提示条件内の担当を断ることも合理的ではないので、予定を覆して契約更新を行った(無期転換していたが、年度ごとに更新を行う形だった)。私は自分の「お気持ち」が抑制された冷めた現実主義者なので、あくまで現実に適応していく。

しかし、この2022年度に担当した、私が一年生を担当してなかった二年生の状態について、これについては詳細を書けないのが本当に悔しいのだけれども、色々な問題が生じた後、その解決に必要な情報を求めても(コロナ情報と同様)隠蔽され与えられず、結局生徒との対話の中で何とか本質が見えてきた後、私が、学校の広報している支援体制と現実の乖離、機能不全について、状況環境改善のための批判を行ったことが、行政部だけでなく、時間制を設定する科の専任からの「敵認定ロックオン」と「追い出すための時間制(翌2023年度用)」による直接的な「排除」のきっかけとなったのだろうと、私は推測している。
そして私にとっては、専任達による追い出しなどよりも、上記の、生徒に関わる件のほうがよほど、心的損傷を起こしたし、この件と同時並行で、あいも変わらず「換気妨害+ノーマスク」を向けられ続ける中で「息ができない」状態、ノーマスクによって過去に野獣に刃物を向けられたこと、その周辺の「絶望」のフラッシュバックが引き起こされる状態になっていった(大学入学前のあの一族によるPTSD+複雑性PTSDに加え、元所属による複雑性PTSD+刃物の記憶のフラッシュバックを抱えることになった)。

今から一年程前に投げつけられた「組織の敵を追い出すための時間割」は、たとえマスク着用の状態であったとしても、何度も伝えてきた「受講者の人数」で担当できないものだったし、そもそも私の所属科の存在意義と専門性を完全に無視した「不合理な科目設定」であったし(そのような視点・認識でいるから適切な支援が行えないことになる)、何より「生徒にマスクの着用を求めることを禁止されたら、たとえ受講者数が少なかったとしても、私は授業を行える状態ではない」。そして、ノーマスクに起因するPTSDフラッシュバックの再発+呼吸困難を引き起こしたのは行政部専任による「立場の差を利用した」継続的なハラスメント、マルトリートメントである。しかし、それは脇に置き、私は「無期雇用者」として「籍を残す」ため、以下の提案を行った。

割り振られた「私の所属科の行う講座なし(当該講座は【養成を経ていない】専任と非常勤にわざわざ分担)、一般的な科目の不自然な設定レベルのみ」の担当は行えない。指定の一般的な科目については、過去に何度も伝えてきたように、たとえマスク着用だったとしても人数が多いので担当できない。ノーマスクだとしたらなおさら不可能である。学校が「教員が生徒にマスク着用を求めることを学校として禁止する」のであれば、私に担当できるのは本来私の所属科の行うべき二講座のうちの一講座のみである。この講座の受講者とは一年間の授業、対話を通して既にラポールが形成されており、「私が直接マスクを求めなくても」生徒はマスクをつけてくれる。この講座のみの担当となると私学共済の加入要件を満たせなくなり脱退することになるがそれでも構わない。講座の性質的にも私の所属科が担当するのが合理的でありかつ現状況において私が唯一担当できる講座を担当させてほしい。

伝えたものの、行政部も検討もせず拒絶するだろうということはわかっていた。「追い出すための、明らかに不合理な時間割」を設定してきたのだから。「道理」ではなく「お気持ち」で動く「である」の世界、組織にとっての「積極的に排除すべき敵」に、私はなったのだ。
しかし、そのような「お気持ち」で不合理を押し通し、生徒の学びにまで機能不全を押し付ける理不尽な体制であるからこそ、私は逆に残る必要があるとも思っていた。ここが2021年度末との大きな違いだ。
そして、そのために元所属組織内で私が何をしたところでもう一切の見込みはないことが明らかであった。だから私は、かつて私が信じていた「大学」へ向かった。

真に「多様性」が重視されている環境だったのであれば「異なる目」は意味を持つ。
真に「対話」が重視されている環境だったのであれば、組織の主流と「異なる意見」も活きていく。

「大学」であれば、まず時間割について、当該分野やカリキュラムについての専門性を有し状況を的確に判断できる先生がいらっしゃる。ハラスメントについても、私が通った大学の先生方は、元所属とは異なり、「上辺の言葉だけではなく」皆さん人権、個人の尊厳を尊重していらした。だからこそ、その中で私はある程度の回復を経て、生を繋いできたのだ。

しかし、結果は年末に書いた通りだった。

人権委員会のはじめの入り口の部分のみは、教員である方にお話ができたものの、その後は所属外の事案であるということによる議題取り下げ、形式のみの会議開催と「時間割に不合理はなかった」&「ハラスメントは認めないけど離職理由には利用する、異議は認めない」である。再申立てに対しても、こちらが投げかけた問いには一切無回答で監査へのすり替え通知、それも直接的な退職理由の根幹、「ノーマスク」のいる室内への呼びつけであった。書面の内容が「伝わっていない」か「読み取ろうとする気がない」か「わかった上であえて威圧している」のいずれかでしかない。
だから私は、かつて私が信じ心の拠り所となっていた「大学」、Sanctuaryの存在も失い、その後は冷静にまず、(5月までの)職場に迷惑をかけないよう即座に退職願を提出し、一ヶ月かけて引き継ぎと片付けを行い退職した後、このアカウントを作成し、着々と「終わり」までの時を刻み始めた。

良くも悪くも、私には先天的な障害が無い。
生育過程で(後天的に)複合的な長期間にわたる虐待暴力を多方面から受け続けた結果、例えば精神障害で手帳を交付されるレベルの方々に生じるような症状ー摂食障害、不眠自傷解離性健忘離人症呼吸困難などを抱えているし、特に刃物で殺されかけた体験によるPTSDフラッシュバックはわりと重大なのではと思う。
しかし、それら全部抱えていたとしても、致命的な人間不信と、どこにも味方がいなかった境遇への適応によって、幸か不幸か、全てを覆い隠して「それなりにやれてしまう」レベルの諸々の能力を(おそらくそのための感情欠落、解離性健忘、離人症も)保持してしまっているし、実際それで素知らぬふりしてやれてしまっていた。コロナで日常的に(長期間改善の見込みがない後遺症を伴う未知の感染症)への感染リスク・それを押し付ける者による、「避けられない、継続的な加害」(あの一族の中にいた日々と全く同じ)に怯えるようになるまでは(抱えている症状は元所属のハラスメントにより全て悪化し強化された)。

幼少期から自らの感情など認められることはなかったからそれがデフォルトで、内心にかかわらず微笑むことができる、ピエロにもなれる。相手を信じることなどできなくても一定の人間関係は築けてしまったから、人間関係に思い悩んで、なんてことすら無かった。
「一匹狼」っぽいと周りに言われることもあったが、「独り=危害を加えてくる有害な人間等がいない安全な状態」であり、よって、「孤独感」なるものを感じることもない。
鬱になんてなっていられない(自分しかいないのだから自分の足で立つしかない)状況だから鬱にすらなれなかったし、自分の人生に一切光は無くそれが当たり前だったから「生きづらさ」なるものを感じたことすら無い(そうでない人生を私は知らない)。
メンヘラ、恋愛タバコ依存、アル中、薬中など、生きるために(孤独/憂さ晴らし等で)病的に何かに依存する状況にもなれなかったし(積極的に生きる気が全く無いから)、幼少期からの抑圧が非常に強かったせいか非行犯罪にも遠い。
一方、「死」は常に自分が生きることと隣り合わせだったから、漠然とした「死にたい」(希死念慮、自殺念慮)のレベルではなく、退職は即、冷静な自殺企図へと結びついた。血まみれになる深手を追っていたとしても平気でそのままでいたりもする。病院へ行こうという気もなかなか起きない

「障害者」という「ラベル」が無かったとして、果たして着々と自死への環境整備をするような状態が「問題ない」と言えるのだろうか?
「障害者」でない者の苦痛や困難は、考慮せず握り潰してよいものなのだろうか?
私の場合は医療者やカウンセラーすら「信じられない」状態である。信用できる根拠のない、信ずるに足らない相手に、何の保証もなく自らの弱みを見せるなど論外であり、それなら死(エンドレスループする理不尽や暴力、加害終焉=救済)による解決のほうがよほどましだ。

そして

わかりやすい障害は無いけれども、それまで自力全力でトラウマやそれに付随する症状をコントロールし抑えてやってきていた、適切な環境下で危害を加えられることが無ければ充分(少なくとも、ある程度の大学→院へ行き、その後三つの職場で十年以上、継続的に契約更新を求められ、無期転換できる程度には)やってこられていた者を、「人権の尊重」を主張する法人が、その中のパワハラで、症状の再発と悪化を起こさせ、さらに「無期雇用者」の不合理な「追い出し」とその背後にある「パワハラ」を認めず、逆に「離職理由」として利用し、その後一切の対話も補償も拒否し続けるということによって再び「絶望」させ、着々と自死への道を整え始める状態にまで追いやったことも、「問題ない」ことなのだろうか?(被虐待歴やそれに関連した「ノーマスク」への恐怖については「人権委員会」の聞き取りや申し立て書で法人に伝えている。産業医カウンセリングセンターの精神科医等適切な判断を行える人物に情報を開いても構わないということも繰り返し伝えている。負荷を伴うことであったが、必然性の高いことであったし、「大学」であれば、適切に取り扱い理解がなされるだろうと、信じ、たかった。)

きっと法人も、この美しい国の人々も、「問題ない」と言うのだろう。全ては「自己責任だ」と。
だから私は「この世界」を下りる

「合理的な配慮」の文脈でまず出てくるのが「障害者」という言葉だ。
「障害者に配慮しましょう」とすると「障害の無い者には配慮は不要」となるのが強者/権力者/既得権益者の論理である。そして決定を行うのは、常に、強者/権力者/既得権益者の側である。

「障害者」ではないけれど、苦痛や困難を抱える「無期雇用者」として、私は法人に「対話」と「合理的配慮」を求めた。
収入が下がっても私学共済を失っても構わないから、今の私の状態で行いうる業務を(元所属では不可能なのは明らかだから)法人の中で行い、籍を残したい、その中で、今後について対話を続けたいと、私は申し立てた
しかし、法人は一切それを無視した。回答すら完全に回避した。

強者/権力者/既得権益者の発する「合理的」は「効率的で(自分達にとって)利便性が高い、無駄を省いた」「弱者や配慮の切り捨て」であることが多い。加えて法人の理事クラスの大半は企業人、ビジネス経営分野出身である。その事業文脈における「合理」とは「保障や配慮などの無駄を省き」正規・無期を搾り、使い捨ての非常勤や派遣「人材」を「安く」広く使い、少ない負担で大きな利益を上げること。

つまり、法人行政からすれば無期雇用者であったとして使い捨ての非常勤ごときが、自らの権利補償を求めるなど、言語道断で取り合う必要など全く無いということなのだろう。

しかし教育、中でも特に「リベラルアーツ」、「人権」、「対話」を核に据える法人内の「大学」の環境は、そのようなビジネスにおける利益追求とは本質的に異なるものであろうし、法人が「多様性」「共生」「持続可能性」を広報しているところからも、一連の暴力的な権力構造の濫用、徹底した不対話、無視、回避の姿勢は、建学の理念、「大学」の実践や広報との間の乖離が甚だしいと言えるだろう。

私はかつて、年齢、立場、身分の差を越えて自由に問える、フラットに「対話」が行える、「大学」の環境を愛した。多角的な視点と深い教養、理性をお持ちの先生方に、優しく見守って育んでいただけたから、「お前が悪いと罵倒され存在も個性も否定され続けてきたけれども、全ての人間が暴力的で理不尽なわけではない。ここには理由もなく人を悪いと決めつける大人はいない。大切なのは"理"、"根拠"、"何をする/したか"であり、論理と教養と理性で暴力や理不尽からも自由になっていければ、このように公平公正で安全な場所であれば、自分も自分として存在していけるのかもしれない」と、少しずつ、ある程度、思えるようになっていった。

私が求めたのは「理にかなった」、過不足のない、実現可能性のある形での配慮だったはずだった。
たとえ「非常勤」であったとしても「最低限の尊厳を持つ個人」として、安全を脅かされずに、脅威をおぼえずに行いうるのみで、収入が減っても共済資格を失っても構わないから「無期雇用者として籍を維持したい」、元所属の「授業」担当という形が困難なのであれば(元所属が認めることなどないとわかりきっていた)、「法人内の授業に限らない業務で籍を繋ぎたい」という希望は、そんなに逸らし交わし無視無対応するのが当然のことだったのだろうか。

「非常勤」が「非常勤である」だけで既にゲームオーバーな世界の論理は、「私」が「私である」だけで既にゲームオーバーだったあの一族の論理、「理」「根拠」を排して権力者の「お気持ち」で全てが決まる、「である」の世界そのものだ。

だからこその「絶望」であり、だからこその「終わり」である。

この世界では「理」なんか全く通らない。何を「して」も何も変わらない。全ては「である」で決まる。一切無駄。

私は「私である」だけであの一族のサンドバッグにされたし「非常勤講師である」だけで法人元所属でも法人行政でも蔑ろにされた。

全ては無駄、不毛でこの世界に光は一切無い。可能性があるとすれば、ここを下り"new day"へ行くことだ。それはこの不毛な世界で加害を受け続けること、理不尽や暴力のループを唯一止められる方法でもある。

実に「合理的」ではないか。無駄がなく効率的である。いずれにせよ人は必ず死ぬ。その時期が早いほうが「コスパ」もいい。

これでいいのだろう。そういうことだろう。

何度も無期雇用者として法人に籍を残したいと申し立てをする者が、自己都合で、自ら望んで、退職したと言えるのであれば、こうも言うことができるだろう。

法人が自死を望んだ。

「そんなことはわかっていたのに」、無かったことにして「ヨシ」する、美しき「合理性」。

「無期雇用者」が「(当人が担当するのが合理的でありかつ唯一)担当できる業務を担当させてほしい」と再三訴えたのにもかかわらず、頑なに拒絶(元所属)、黙認(人事部、人権委員会法人)された結果の「担当できる業務がありませんので、契約更新は行えません」が「自己都合?」、「学校の限界」つまり学校の都合だと、管理職当人が文書に記載しているのにもかかわらずに?
(ちなみに、当該時期に元所属2023年度の非常勤講師の公募を行っている。加えて、事情を知った、本来私の所属科が担当するのが合理的である講座を「養成を経ないで」割り振られた「非常勤」の先生も、「担当を変わる」ともおっしゃっていた。つまり、白々しい「お願いできる業務はありません」は物理的に調整が不可能だったのではなく、はじめから「調整する気が無かった」ということで「お気持ち(敵の追い出し)」の遂行を行政部及びが行った成果であり、当方の「退職」は「解雇」であったと言えよう。)


「合理的配慮」なんか行わないのが一番「合理的」なんだよ。多様性も共生も拒否して、強者の論理と裁定者+イエスマンお友達だけで弱者を食い潰しながらやっていくことがね。

人権、対話、多様性、共生、尊重、、

何だったんだろうね。全ては過去のこと。

画像の文書は全て「人権委員会」への申し立てで法人に渡っており、それらに基づいて「監査」や裏どりが行われている。
その上で、全て「ヨシ!」して揉み消し隠蔽で一丁上がり!としたのが、「人権尊重」を主張する実に美しい組織である。



2020〜2021年度の概要
References in AY2020
References in AY2021
2022年度の概要
References in AY2022
2023年度の時間割について(行政部文書と返答)
人権委員会申立書
From middle of nowhere
人権委員会不受理後

チームとは何か
「合理」とは何か
人権委員会不受理後

Ending
「人口減少(労働力不足)時代」における「多様性」の重要性ー「批判的思考」、「対話」の重要性(帰国子女受け入れ校におけるパワハラ問題と国立大学費値上げ150万問題から考える)
変わら/れない学校教師をどう変えていくかー学校(初等中等教育)教員と大学(高等教育)教員の違いから考える方策案
Let's get fair. (元所属について良い点と向いている層)
不合理ではないの不合理ー専門性全否定の行先
法人対応について(広報と実情の乖離)


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