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不合理ではないの不合理ー専門性全否定の行先

元所属や法人におけるパワハラとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。

元所属は一般的には良い学校として見られることの多いところであり、実際、評価できる点もある
しかし、その一方で置き去りにされている層があり、しかもそれがよりによって建学の目的からすると最も手厚く支え守られなければならないはずの、日本語運用能力に大きな困難を抱える生徒達であるところは極めて不誠実であると言えよう。実情に合わない広報を積極的に行い、呼び込むだけ呼び込んで放置している、不合理指摘されても開き直っているところがなおさら理不尽である。

学芸大の江原遥先生もおっしゃっているが、人数比が少ない弱者層に起こる理不尽は黙殺される。全然違うのに、「自己責任」にされた上で。元所属も大半の生徒の満足度は非常に高いし、日本語生についても授業や進学対策以外の学校生活(友人関係)については一定の満足を得ている場合が多いので、問題が顕在化しにくい
それでも、見えにくくても問題は確実に存在していて、下のような不満を抱きながらも入学してしまったので仕方なく、我慢しながら卒業まで過ごしたり、耐えられなくなって転学せざるを得なくなったりする。
ここでさらにまた状況を見えにくくしているのが、転学者が出たとしても、人気校ゆえに9月生入試ですぐにその穴が埋まることである。それゆえに実情に合わない広報をし、広く生徒を呼び込み、「自分達に」負荷なくできる範囲の支援しかしないでいてにっちもさっちもいかなくなった生徒は「自己責任」として切り捨てることが可能になってしまっているのである。何と無慈悲で暴力的な構造だろうか。

これ、絶対音感の弊害でメロディーが乗っていると歌詞が聞こえなくなる感覚と近いのかもとちょっと思った。
江原先生は弱者の視点を保持し、困難に寄り添い、リスク軽減や改善を模索する姿勢をお持ちだ。学芸大にこういう方がいらっしゃるのは本当に価値があること。強者の論理を振り翳す教員ばかり量産されると、学校の官僚主義権威主義的傾向、プロパガンダ伝達と盲目猪突猛進という戦前の悲劇が繰り返されることになる。(既にそうなっていて、コロナ対策、というか無策、ノーガードのノーマスク化で顕在化している)。教員は学校文化社会の勝者、勝ち組であり、その成功体験、学校環境との親和性が免許取得や就職のモチベーションとなっている傾向が高い。そうすると、「自分達にとって楽しかった、自分達にとってよかった学校」環境を再生産しようとすることになり、そうでない、「自分(達)と異なる者や視点の無視切り捨て排除が行われることになる。

強者の強者による強者のための環境。頑なに弱者の存在から目を逸らし困難を伝えられても耳を塞ぐ、考えない、考えようとしない。
どんなに伝えても伝わらないのは、受け止める気と理解に必要な知見素地、何より想像力が致命的に欠如しているから。それでいて対話や多様性を謳えるところが本当に信じられない。

「否定」と「自己責任」、これ。対話も多様性も無視。行政部専任法人、皆一緒。広報とは真逆だけど。

それでは、卒業生の書き込みを取り上げてみよう。

本当に、広報だけは積極的に行い、現実が追いついていないし生徒達の苦痛や声が拾えていない(か、あえて無視している)。レベル別授業は英国数。その他は各教師の配慮に基づいて授業が行われるが、「日本語」の視点を持つ教師はほとんどいない。「国語」の目では漢字が読めないこと、語の意味がわからないことくらいしかとらえられないので、振り仮名をふったり英訳の語リストが配られたりはするが、それでどうにかなるものでは全くない。
「先生たちは基本何もしてくれません。」的確。自主性を重んじている/放任スタイルは、元々の余力が大きい生徒にははまるし自発的に存分に伸びるきっかけとなりうるが、その準備ができていない、根っこもはれていないような層にはひたすら「切り捨て」「自己責任」の無慈悲となる。大学受験は大半の生徒がAOを利用する。進学実績のほとんどが推薦によるもので一般入試はごくわずか
やはり「自主性」についての指摘。生徒が自分で動か/動けなければどうにもならない。そして、自分で動けるためにはそれに足る基礎が必要となる。アクティブラーニングが高学力層には有益だが低学力層は置き去りにするのと一緒。レベル分けがない科目の授業に日本語生がついていくのは本当に困難。日本語生だけでなく現代文L4、L3生であっても
「外面がいい」的確。広報、アピール、状況成果の演出は積極的に行われるので、内情がなかなか窺い知れない。「楽しいけどそれだけ」も的確。本当に生徒は素晴らしく、人間関係、行事部活などの学校生活は存分に楽しめる環境だが、日本語に困難を抱える層については日頃の授業も進路選択対策も「自己責任」にされる過酷な環境。進学については塾や授業外の非常に大きな支援尽力が必須
こちらも「広報」と現実のギャップについて。「国際性」についてだが、この学校はインターナショナルスクールではなく、授業も日本語、日本で生まれ育ったバイリンガルではない教員が大半の、普通の1条校である。自由あるいは緩い環境で青春を謳歌することが大半の生徒達のニーズと合っており、それによる満足度も高いので、メインストリームとニーズがずれているマイノリティーの声は埋もれていく。感染対策についても同じ。
おそらく授業中の発話、アウトプットの機会がほとんど得られなかったのだろう。現代文でL4生に多く発言させていたのは、ガス抜きの意味合いも大きかった。校内での特に困ったこと、溜まっている不満等を出させて皆で共有し、ある程度大人の目「も」持つ教員から背景説明や対応策などを提供し、ピアと一緒に考えていく形。行政部や科が頑なに1年現代文のクラスサイズ適正化を拒んだのはその必然性が掴めていないか認識した上であえて「無かったこと」にしているから授業時間は有限であり、クラス内の人数が多くなればなるほど、一人一人の意見を拾える時間は減っていくL4も15人、どころか20人以上で行えると平気で思っているのは、教師が喋り続ける授業をしてそれで済むと思っているから。全く生徒達が見えていないか、見た上で無視している。不対話、不傾聴、無対応できれいに一貫している
本来、英語で有れば存分に能力を発揮できたはずの生徒達が「日本語では」結果が出せず、充分なサポートも得られず、苦しんでいる。華々しい、実態に合わない広報をして呼び込むだけ呼び込み、入学後は無支援の「自己責任」で「切り捨て」る無慈悲。本当に家庭の財力、授業外校外の大きな尽力とサポートが必須。広報の適正化か校内支援の改善が急務。これ以上犠牲者を増やしてはいけない


同校の口コミは総じて高い。その中で、低評価をつけている(元)在籍者の書き込みに着目してほしい。そして、特にそれが増えた時期についても。

2021年=日本語科教師が1年生の現代文L4(4レベル制の中で最も基礎的な位置付けのクラス)を担当しなくなった初めての年である。

L4の中でも特に海外在住歴の長かった日本語に困難を抱える(私が担当していた)層は、このような国内の「日本語で記述されたサイト」を参照したり書き込んだりということは少ない。
そのため、おそらく2021年度入学で書き込みをした元生徒は、L4ですらないか、あるいは入学時にはL4にプレースされてもすぐに上のレベルへ上がってしまうような層である可能性が高い(現代文がL3の生徒であっても、同校の日本語で行われるカリキュラムの中では直面する苦悩が非常に多く、当人の認識では日本語が苦手だとなったり、自分の日本語力のせいで思うように学べないと悩んだりすることが生じる)。
つまり、校内で最も日本語に困難を抱える層よりはだいぶ困難度が低い(L3相当の)層ですら、同校の日本語支援や帰国子女の受験支援体制に不満を抱えているということが明らかなのである。

たとえ一学期でL4を卒業していったとしても、主として入学直後のオリエンテーションで、(インターナショナルスクールでも英語で学べる学校でもない)日本の普通の1条校でどう生き残っていくのかという術や心構えについて、「日本語」の視点から必要なことを多少は伝えられていたところがあったので、そこを経ているか否かは大きい。
そして、そここそが、2021年度以降、失われ、さらに2023年度以降は日本語科そのものが消滅した致命的な点なのだ。

同校の日本語支援についての視点は
2023年度の時間割について(行政部文書と返答)
References in AY2022
などから見えてくることと思われる。

より詳細については、他のページや資料が揃ってから追加する。

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