見えない世界

悲観的すぎるだろうか。何かを得るとは何かを失うことだと思う。しかし、逆もまた然り、である。

全盲の方と関わるようになるまで、目が見えない世界だなんて、それこそ果てしなく真っ暗で想像もし得ないようなものだった。勿論、見えないことで制限されていること、物理的な困難や弊害もたくさんある。けれども、「見えなくても見えている」とも言えるようなことが、予想以上に多いんだなと、関わりの中で知った。

例えば色。ある日、その方(男性)に「生地店で黒い布を買いたい」と言われて、「黒(色)、、?」と思った。全盲なので、当然、実際の「黒」を知覚したことはないはずだ。それでも、たとえ見たことがなくても、皆さん「黒」という色、そしてその色がどのようなイメージを持つものとして社会の中で機能しているかをご存知だったりする(その方は自宅の機械の目隠しとして布を使いたかったとのこと)。「赤」とか「ピンク」だって同じ。ジェンダー規範(その正当性云々についてはここでは問わないこととする)も含めて獲得している。

別の日には「いやー、すっかり日が長くなりましたね。」なんて言われて、「日が長い」とは、、?と、またフリーズした。そして聞いてみた。「こんなこと言っていいのか、失礼だったら申し訳ないんですけど、「光」を知覚することってあるんですか?」
私は「日が長い」=太陽光が遅くまで残っていることの認識によると思ったのだ。でもその方はあっけらかんとおっしゃった。見える/感じるなんてことは全くなくて、受ける日差しの暖かさなどで判断しているのだと。なるほどと思った。

私達は「見える」ことで視覚に集中し/頼りすぎ、その他の感覚の存在や可能性を忘れる/活かしきれないことがある。

例えば触覚。点字のぶちぶちを、私は認識できるようにはならなかったけど、点字利用者の方々は瞬時に受け止め、記号、文字化できる。点字を読み上げていただくと、そのスピードに驚愕する。私達が読むスピードと変わらない。
点字には点字の文法というかルールがあって、同じ日本語を読み書きしているとはいっても、私達でいう平仮名片仮名漢字等の書き分けが無いから、分かち書きをした上でその他数字やアルファベットや記号も含めて、「ここからここまではこうです」みたいな指定を加えている、というかそれ以前にそれらの全てが6つの点の組み合わせでなされていることも驚愕すべきなんだけど、その、刺激としては極めて限定的な「6つの点の組み合わせ」で、「読み」も「書き」も、場合によっては研究だって、バリバリ行う。両手を使って、先を見通しながら、皆さん本当に自然に素早く読んでいく。
しかし、その一方で、同じものが私には点の集まりとしてしか認識できないし、試しにその点を触ってみても、「ぶちぶちがどこかにある」程度にしか受け止められない。必然性がないから、感覚が研ぎ澄まされないのだ。

人間というのは非常に怠惰な動物で、使わない力は眠ったままだし、使っていたものでも使うことをやめればすぐに退化する。私には無縁だけれども運動や筋トレだってそうだろう。あるいは、携帯スマホの時代になって、私達は昔は当然のことく記憶できていた友人の電話番号などを自分で記憶できなくなった。
昔から視覚に困難を抱える方々があん摩をなさることが多いのは、彼らは視覚の代わりの知覚(特に触覚)に長けていて、目に頼っている人が気付けない些細なことをも手から感じとることが可能だからなのだと思う。

先述の全盲の方とは、食いしん坊の私は話が合った。その方もなかなか食い意地が張っていて、世界各国のハーブやスパイス料理がお好きで、食材調達のことやら調理のことやら、よく話をした。ちなみにその方はご自身で料理もなさる(当然食材の買い物もする)し、習いごと?でスパイス会やワールドミュージック会のようなところへも通うし学会発表で海外へ行く。
さらに驚愕したのは、ご自身で栽培も収穫もなさっていて(栽培仲間でもあった)、育てているものの写真(!)が送られてきたりしたことだ。当然、撮っている写真に写っている像はその方には見えてない。でも、撮れる、し、それを他人に見せられる。
ちょっとした衝撃だった。つまり、見える者が勝手にできないはずだと思い込んでいる、あまりに色々なことが、普通に飛び越えられていった。

しかし考えてみれば当然である。(中途失明の場合はまた違うとは思うけど)見える者から勝手にかわいそうと思われようが思われまいが、彼らにとっては視覚が無いのが当たり前で、それを前提とした方策(他器官による代替)で生きていくことデフォルトなのだ。むしろこちらより当人のほうがよほど「見えない」ことに関してフラットであるというかあっけらかんとしていることも多い。
勿論、特に初めて行く場所などには同伴者が必要だったり、せっかく撮った草の写真も(見えていないから)全然草でないところが写っていたりということもある。そういう不便さとか困難はあるけれども、そのためにむしろ非常にコミュニケーション能力に長けているという側面もある。

何が良くて何が悪いのか。一概には言えない。

互いに相手の状態が「わからない」こともある。でも、そんな時にも、聞いて確かめてみれば、そのコミュニケーションや関係性があれば、たとえ完全にわかることはなかったとしても、想像して思いやって補完していくこともできる。

見えない世界について知ることができて、多くの気付きを得ることができた。

SDGsが持て囃されるようになった昨今、「誰も取り残さない」というスローガンばかりが実態を伴わず響いているように、私は感じている。

「誰も取り残さない」ために必要なのは、他人を蹴散らしながら自分の権利を主張し振りかざすことではなく、相手も自分も思いやることであるはずだ。

必要なのは対話と知識と理性的な行動。相手を知り、自分を知り、共により良い道を模索し、試行錯誤しながら歩んでいくこと。

5類脳社会で理解されることなどないけれど、書き残しておく。

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